あっち〜!と頻コールに共通すること

断乳少し前ぐらいからだったでしょうか、こ初々さんは気に入らないことがあると泣きながら「あっち〜!」と前方を指差すようになりました。まだおっぱいがあった頃は、私が抱っこをしているときに「あっち〜!」と言うことは無かったのですが、おっぱいをやめてからはたとえ私が抱っこしていようと「あっち〜!」・・・おっぱいをやめたばかりの頃は、この「あっち〜!」が非常にこたえました。というのも、「あっち〜!」という言葉に、「おまえじゃないんだ、おっぱい出せ〜!」というメッセージを受け取ってしまったから。ハハさえもおっぱいのかわりにはならないんだ・・・そう思うととてもつらい気持ちになって、「あっち〜!」という言葉を聞くと時折心が凍りつきそうになったものでした。そのうちにこ初々さんがおっぱいのことを忘れつつある様子がわかるようになってくると、「あっち〜!」の中に「おっぱい出せ」というメッセージを聞き取ることはなくなったのですが、機嫌が悪くなるとすかさず出る「あっち〜!」がどうしても嫌で嫌で仕方が無い。「あっち〜!」と言って指さす方向へ抱っこして連れていっても、また違う方を指差して「あっち〜!」・・・こ初々さんがどうしたいのかも分からず、そしてそれゆえに彼女の欲求は満たされずに不機嫌のまま。こ初々さんの望むままに動いて(あげて)いるのに、してもしても駄目出しをされてしまう。そのうちに「いい加減にしてくれ」という気持ちで放っぽり出してしまってあとから後悔、なんていうことも。最近では「あっちじゃ分からないから、ちゃんと言葉にして!」と半分無理難題をふっかけて(でもたまに泣いて怒りながら、パン!と言ったりする)しまったりするくらい、「あっち〜」を聞きたくないのです。

何でこんなに「あっち〜!」が嫌なのだろうと考えたときに思い出されたのが、「頻コール」の患者さんたちでした。「頻コール」というのは看護用語(というか略語)で、「(ものすごく)頻繁に押されるナースコール」のこと。一言で「頻コール」と言っても程度の差はあって、「とにかくナースコールを握り締めてずっと押し続けている」場合もあれば、「数十分おきにあれしてこれしてと同じような用件(大概は急を要さないもの)でナースコールを押してくる」場合もあります。いずれにしても忙しくてきりきりまいしている時には、その対応に追われて「きぃぃぃ!」となりがち。朝20人の患者さんの検温をしながら、採血やら処置やら洗面介助をしなければならない時など、胸にぶらさがっているPHSでナースコールを受け「またあとから行きますからね〜。待っててくださいね〜。」と言いながらナースコールをつなぎっぱなし、その間にほかの患者さんの対応をすることもしばしばでした。そんなふうに「つれない」対応をして、多忙な時間が過ぎ去ったあとに「もっと優しくしてあげればよかったなぁ。こんなに忙しくなかったらもっと色々してあげられたのに。」と後悔することが多かったです。

しかし今にして思うと、本当に時間にゆとりがあったらもっとよい対応ができたのだろうか?と疑問です。頻コールの患者さんたちに優しくできなかったのは、「忙しかったから」という理由でずっと片付けてきましたが、もし頻コールの患者さんだけの対応をすればよい状況になったとしても「もう、そんなにナースコールを押さないで・・・」と(気持ちが)ヘトヘトになったりイライラしたりしたと思うのです。ですから「本当はしてあげたいのにしてあげられない」葛藤は、人手不足(時間のゆとり不足)からだけではない。ではもっと別のところにある理由は何か?それは、おそらく「満たされることのない、際限のない欲求に応え続けることができない」という事実なのではないかと思うのです。ナースコールが鳴るたびにベッドサイドへ行き、様々な要求に応えても応えても「またすぐに来て・・・」と言われ続けることの裏に、「どんなに尽くしても満たされない欲求」をみてしまう。それに耐え切れない、というのが「頻コール」の患者さんたちの対応に困難を覚える(葛藤を生じさせる)理由にあたるように思います。

それと同じように、こ初々さんの「あっち〜!」に私が耐えられないのは、そこに「満たされない欲求」をみてしまうからなのかもしれません。何をしても、どんなにしても、「それでは満たされない」と言われ続けることをひっくり返すと直面する、「してもしても、この人を満たしてあげることができない」という事実。もちろん子どもとはいえ別の人格を持つひとりの人の欲求をまるごと満たしつくすことなど不可能なことなのですが、そんなことを頭では分かっていても「私なら出来るはずだ」という幻想をどこかに持ってしまっているようなのです。ですから欲求を満たしてあげようと動いてみるものの、「違う」と言われると落ち込んだり悲しくなったり、時として腹が立ったりしてしまう。でも子どもの機嫌や、患者さんたちの言葉にならない思いを自分が何とかすべてマネージできるなどというのは思い上がりでしょうし、その根をたどれば他者をコントロールしたいという願望につながっているでしょう。もしどこかで「これ以上は、私にできることではない」という諦めを持つことができれば、おそらくこ初々さんの「あっち〜!」にも患者さんの頻コールにも、それほど感情的に巻き込まれないですむように思います。そしてきっと「あぁ今この人は、こういう形で他者とコミュニケーションをとっているんだな」というのが、おそらく正解。子どもにしろ、頻コールの患者さんにしろ、言葉にできるような欲求をまるごと満たされることを求めているのではなくて、もしかしたら「こうして欲しい」なんていう明確な欲求はなく、たとえ他者から煙たがられようと嫌がられようと少々邪険にされようと、「自分の働きかけで、それに応えようとしてくれている人がいる。そばに人がいてくれる」ことのほうを望んでいるのかもしれません。それに振り回されて動いてみても、こどもの機嫌がみるみるよくなるとか、頻コールがなくなるというふうにこちらの思うようには問題が解決されることはないかもしれませんが、もうそれ以上は「私が何とかできる」領域のことではなく、「お付き合いさせていただくよりほかない」のでしょうね。

しかしながらそんなふうに自分の「こうしたい」を置き、ある意味自分を空っぽにして他者の隣にいられたらどんなに楽かと思うのですが、そんなことは(少なくとも私には)出来ません。半ば諦めて「お付き合いさせて頂いて」いても、「もう付き合いきれないよ」と腹がたったりイライラしたりするものです。それはもう、関わるこちらにもそれぞれキャパシティがあり、感情もある人間なのですから、当然のこと。一方子どもにしても患者さんにしても、要求することはしてもらってかまいませんが、「相手が思い通りに動く」わけでは決して無く、時として「こういうことを言ったりしたりすると、相手は不快に思ったり怒ったりするものなんだ」ということを知ってもらってかまわないのだと思います。それが一方的な「援助ー被援助」の関係ではなく、「人間と、人間のつきあい」なのだろうなぁと思うのですが・・・なかなかね、そう冷静でいられないことも、多いのだな。