分からないままにそばにいる

こんにちは、みなさん。暑いあつい夏をいかがお過ごしでしょうか?私はあいも変わらずオットの実家に居候をしながら、なんとさらにあつかましきことに自動車学校へ通い始めました。ほぼ毎日午前中はお義母さんに子どもをみてもらって、「田んぼの前の交差点を右へ」なんていうのどかな道案内をしてもらいながら自動車に乗らせてもらっています。こんなふうにほんの数時間ではありますが、まるまる子どもと離れ、全く子育てとは関係のないことが出来るというのは思った以上にいいものです。以前お母さんナースたちが、「仕事をしないで子育てだけなんて出来ない」と言っていたのを「パワフルだなぁ」と思いながら聞いていましたが、仕事と子育ての両立は体力的にはきついものの、精神的なしんどさは軽減されるのだろうなと今では思います。

さて先週はオットからみた断乳ブルーの危機をお伝えいたしましたが、名誉のため!?一点だけ訂正させてください。こ初々さんが早起きしてしんどかった頃、「もうちょっと遅く寝かせれば?」というオットのアドバイスに対して、「あなたには分からない」と私が言ったとオットは書いておりましたが、たぶん私は直接的に「あなたには分からない」とは言わなかったはずです。私の記憶では、「じゃあ、かわりに毎日5時に起きてよ!」と言ってしまった。その言葉をオットは「あなたには分からない、と言われた」という意味に受け取ったという点において、「同じことを言った」と言えると思いますし、そんなことを言うべきではなかったと後悔していますが、それでも私は分かる、分からないということについて安易に口にしないようにしているつもりです。

というのも、「分かる」というのは何をもって「分かる」と言えるのか、それこそ分からないからです。もし他者が自分と全く同じ状況におかれても、自分とは違う他者が自分と同じように感じるかどうかも分からないですし、そもそも「この私、ではない誰か」が同一の状況に置かれることもほぼないと言っていいでしょう。ですから私は、自分のおかれた状況を他者に「(同じように感じ)分かってほしい」というふうにはあまり思わないのです。もっと言ってしまえば、「この辛さを分かって!」というふうにも思わない。そこは、私があきらめている部分です。だからといって「人と人とは分かり合えない」と絶望しているわけではなく、「分からないままにそばにいたい。そばにいてほしい。」と願ってやまずにいます。

本当に辛いこと、というのは「言葉が遅れる」ものです。どんなに言葉を重ねても、どうしても表現できない何かが残ります。言葉にしながら、「でもこれとは違う」という違和感だけが残っていく。「これこれこうで、こういうふうにしんどい」というふうには説明できませんから、冷静かつ合理的に「じゃぁ、こうしたら?」「それがいけないんだよ」と話を聞かれてしまうと太刀打ちできません。そういうときには余計に自分の非合理的な面や感情的な面に気づかされて情けなくなってしまう。だから、話し合いはなし。でももちろん自分のしんどさを分かってもらうことは叶わなくても、それでも「そばにいてほしい」と願う。今回しんどかった時に「初々さんが元気になるのが一番」と言って実家に行かせてくれたこと、そのことこそオットが「そばにいてくれた」ことだと私は思っています。物理的に遠く離れることにはなりましたが、「元気になって欲しい」というオットの願いをそばに感じながら暮らすことができた。たとえ私のしんどさがどのようなものなのかオットには分からなくても、いつもそのようにそばにいてくれようとしてくれることが私の危機を救ってくれているのだと感謝しています。

子育てにおいては父と母、それぞれ置かれている立場や状況が違います。母である私も「とーちゃんもつらいんだよ」という本当のところは分かっていないでしょう。なかなか「そばにいてもらう」ばっかりで「そばにいる」ことができていないかもしれませんが、これからも「分からないままに、そばにいあえる」夫婦でいたいなぁと思っています。