幼児本に表紙は不要説

今朝は久々に吐きました、ニーニャ。保育園に送っていって、園庭を横切って教室に入る、その寸前で突然の座り込み。普段はわりと鷹揚に構えているのだけど、今日は開け放った窓やドアからクラスメートや先生が口々にニーニャの名前を呼んでくれたのでつい焦ったマミーちゃん、娘を抱えて強制連行。これがイヤイヤ期の彼女の逆鱗に触れたらしく、先生の腕の中でひきつけ起こすほど大泣きして、吐きました。あちゃー。

いや最近の「私の意思を無視するのならば、いっそ世界よ滅びろ!」とでもいうようなイヤイヤ(彼女の場合はスペイン語で「no no(=ノ・ノ)期」)ぶり、ほんとすごいです。これもいつかは過ぎるのでせうか? こないだなんかの本で「物事がわかるようになる4歳になれば落ち着きます」なんて書いてあったけど、ベイベー、ってことはあと2年半? っていうかうちのベイベまだ1才半なんでその全人生より長いんですが、とがっくり。それなら娘が落ち着くより前に私が落ち着けるようになる方がよさそう。

とは思うものの、「田舎者のお調子者」という私がそう短簡に変われるわけもなく。……と思い知ったのは、つい最近。なんだかねえ、子ができたら「母性愛」が湧いたり、そうじゃなくても子育てのうちに「おのずと慈愛溢れちゃう母」になったり、こう、なんちゅうか、どっか理想的な人間像にちょっと近づいちゃった自分、というのを想像していたみたいなんだけど、違った! まったく! どこまでいっても私は私だった。田舎者でお調子者で気分やで掃除が下手で見栄っ張りで、ちょっとキュートなおかめちん、うふ。親子死なない程度に掃除はするし、自分が赤子の食物であるあいだは酒を断ったりくらいもできるけど、根本的なところはちっとも変わらん。

ちょうどあれだ。中学生が20歳くらいを、20歳が30歳を、30歳が70歳を「おとなだな! きっとあれくらいの年になれば俺もちったあ澄み切った心境になってんだろうな」なんて思ってたのが、自分がなってみりゃぜんぜん違うとわかる、それと同じ。「『お母さん』が料理本を見てる」ってのも自分が子どもの時には不思議だったけど、そうそう自己流ばかりでやってりゃ味も崩れてくるんでたまにゃ基本に戻りたくもなるってもんスよ。とかね。

まあでもそういう「ちっとも理想的なものではない私」を認めるというか受け入れるところからしか、「いま目の前にいるしょうもないハナタレの子どもがそれだけで丸ごと愛すべき存在!」にはならないような気もするので、ま、それでいっか、と。ブロックやら洗濯バサミやら表紙と中身が別々になった絵本(幼児本に表紙は要らないぞ!)が散乱した部屋の真ん中に座り「掃除は私苦手だから、頼む!」とまだよちよちペンギン歩きの娘を拝み、しかし頭の中が「さっきもらえなかったジューチュ」でいっぱいの彼女から「ノ!」とにべなく断られ、ああ憎々しいお顔、いやしかしこれを丸ごと受け入れることが……できるかー! 「お片付けー! あっクレヨンどっから、っていきなり壁に描くなあ、くぉらあ!!」と今日もまた鬼の形相で絶叫。うーむ見事に理想に程遠いのだけは確かなのだが。