子育てには、冷たい大きなおやかん

まるで自分の実家のようにオットの実家で暮らしている、あつかましい嫁の初々です。思い返せば思い返すほどヒドかった断乳後ブルーをサバイブし、豊かな自然と人のつながりの中で療養中!?でありまして、そのどれもがじわじわと効いてずいぶん回復してきました。しかし「もう無理!きぃぃぃ!」となって(すべて を放り出して)自分の実家ではなくオットの実家に帰っちゃうような妻を、「初々さんが元気になるのが一番」と優しく送り出してくれるオットを「冷たい」と形容するとは何事だ、とお叱りの言葉が飛んできそうです。もちろんオットは「そういう意味では」優しく、(たしか)村上春樹氏の言葉をかりれば「大きなおやかん」。 容量が大きく、なかなか沸騰しにくい。すぐに沸騰して「きぃぃぃ!」となる小さなおやかん派の私にはとても信じられない沸騰しなさ加減なんです。それはそれで素敵なことなのですが、その沸騰しなさ加減・・・つまり感情的に巻き込まれない様子が時として「冷たい」と感じるのは、私が小さなおやかんだからなのでしょうか 。子が泣いていると、しばらくは「やぁやぁ機嫌の悪いときもありましょうや」と思っていられても、だんだんと「何が気に入らないのだ・・・」から「この私のどこが気に入らないのだ・・・」と個人的に受け取り始めてイライラしたり悲しくなったりしてしまう私をよそに、「泣いてたってぜんぜん平気。」とひょうひょうとし ているオット。それがたぶん「正解」とわかっているだけに、そのように出来ない私はくやしまぎれに「冷たい」と非難してしまったりするわけです。やっぱり大きなおやかんには勝てませんなぁ・・・

さて、よく看護は「感情労働」だといわれています。職業という枠で守られながらも、人の生老病死に寄り添う仕事ですから、喜怒哀楽、感情が動かされないわけにはいかないからです。私は病棟勤務をしているころ、よく「自分の感情の振れ幅についていけない・・・」と嘆いていましたが、喜んだり悲しんだり、イライ ラしたりがっかりしたり、そういう様々な感情が活発に動くことは、体を活発に動かすことと同じようにヘトヘトに疲れる体験なんですね。そして子育てをしてみて気づいたことは、子育ても同じように感情労働だということ。子の成長過程や感情体験(機嫌)に振り回されながら、実に様々な感情が揺れ動く。そしてそれを時とし て自覚的に統制しなければやっていけないという面も、看護という仕事に通じるものがあることを知りました。

ということはつまり、感情労働としての子育てには、つめたーい大きなおやかんの方が圧倒的に有利なんですねぇ。まぁでもたぶん、おやかんの容量っていうのは持って生まれたものでそうそう変えることはできないでしょうから、小さいおやかんなりに、何度でも沸騰しながらやっていくしかないのでしょう。自分の容量 をわきまえてなるべく沸騰しないように火を小さくしておくとか、沸騰して吹きこぼして火を消すとか、あれこれと対策をするでしょうが(戦略的に関わるってことですね)、沸騰するもんは沸騰する。そうやっていちいちヘトヘトになって、大げさに騒いで、あるときは突然「実家に帰らせていただきます!」とふいに家出してし まったりしながらも、自分だけでなく周囲のみんなすべてを含めて「ま〜トータルすれば、ぼちぼち愉快」であればよしかな、なんて思っています。どうしても割りくうのは大きなおやかんですけれども。ごめんね。