隣の初芝ホームラン

えーもう南部アンダルシアでは気温40度。半島のへそマドリードでは湿度30%以下。日本ではたまご肌だった私も(加齢はともかく)こちらの地獄の夏に灼かれていまや素肌ナチュラル豹柄です。ぐすん。初々さんご一家、潤った肌してはるんやっしゃろなあ(想像京都弁)、うらやまし。

うらやましといえば、父なるひとの育児参加(しかし「参加」って……)。うちも朝8時半出勤の夜10時帰宅、休日は日曜のみ、の中でたぶんわりと頑張ってくれてるのだけど(永久爪切り担当とか在宅時はオムツ換えとか)、やはりそこは隣の初芝ホームラン。どうしても圧倒的に私が関わる、どころか、ニーニャ(娘、1才7ヶ月)とふたりでの外出や留守番をまだ怖がり、そしてやはり仕事で果てたときなど「家でまで俺を疲れさせるな」光線をモウモウに出してくる。「ふたりで育児の日常を生きる」ベースで動かれている隣のオットさんたちがみなツレアイより偉く見ゆる日よ、そっと弁当の手を抜く。

「あんたはいいよね、『疲れた』って胸張って言えて!」とガキの台詞を吐いたのはたしか先週末。「仕事で疲れた」の「正当さ」に比べて「子育てで疲れた」という響きの、この昭和枯れススキ感はなに? いや自殺とか育児放棄とかじゃなくて(まあそれもそんな彼岸ではないが)、単に「今日しんどかったわ」だけなのに。「仕事で疲れた」→「おつかれさま。おビールも一本つけましょか?」なのに、「子育てで疲れた」→「まあそういうこと言わずに、頑張ろうよ! 大変なのはいまだけだよ」という、この差よ。あのう、母は疲れてもいかんとですか?

一般的に、「海外生活の体験のない異国人との国際結婚は大変」だという。どんなに頭ではわかっているつもりでも、「異国で急病に罹り、立ち上がる気力もないままベッドに横たわり窓の外をゆっくり過ぎる大きな雲とどこからか聞こえる小鳥の声をただただ夕暮れ誰かの訪れまで追い続ける」という心細さは実感として、体感として、わからない。子育ても同じで、泣き止まない子を抱えて万策尽きたよこっちも泣きたいよでも私が頑張らなくちゃなんだよねでももう無理かももう限界かもと詮無くウロウロして、気づけば中島みゆき「時代」を泣きながら絶唱していた(実話)という感覚は、子どもが泣き止まないと「あー、もう俺じゃダメだ、はいカアサンにバトンタッチ」とササッと退場できる「場」に自分を置き続けているひとには、たぶんわからない。自分から、「時間」や「主体性」が暴力的に奪われる経験。圧倒的な弱者に奉仕しつづける体験。

でも。じゃあ「あんたも同じように損なわれてよ!」と声高に主張するのもゾッとしないわけで。しかし慈悲深い笑顔ですべてを包み込む、のも、狭量なあたしにゃムリムリ。ああ母は「母」になったからってぜんぜんダメな人間だよ、と落ち込む私の肩を、「やー。やー。」と謎の発音をしながらニーニャがとんとん叩いてくれた。いつの間に! いったいどこで! トントン。「なー。やー。」 トントン。「まあ、まあ」。あっ、慰めてくれてたのね!?