健全な精神は

今回はいいお話ですよ、我ながら。なんで自信満々かというと、引用だから。引用元は『こども、こころ学』(石川憲彦、ジャパンマシニスト)、そのp192、『努力と発病』から。

健全な精神を守る環境をつくろうというのがナチスの初期のスローガンでした。

びつくり。
美しい話にはご用心あそばせお嬢さん。


昨日まで、以前ここで少し紹介させていただいた、余命何年の友だちが遊びに来てくれていた。幸いなことに、あれから半年、西洋医学的治療および東洋的な多方面の試みというか周囲のサポートなによりもちろん最終的にはまったく本人の頑張りによって、症状はだいぶ良くなっている。まあでも、「死ぬほどびっくりした!」と迂闊に隣で口走らないように粗忽な私でも気をつけるくらいには、切実に、病気だ。(でも言っちゃうのだけどね。そして彼女はそれをゆるしてくれるのだ)

私はなにができるかなあ。

所詮、他人事だ。ツレだって子どもだって、他人だという意味で。所詮、なんもできない。「代わりに死んであげる」ことができないという意味で。彼女だけにでなく、ツレにも、子どもにも、いったい私はなにができるかなあ。

本を読んでいて、みっつのことが重なった、と思った。
ひとつめ、吉本隆明がたしか言っていた、「親として、子どもが刑務所に入ったらできること。それは『じゃあ、オレも入るぜ』と刑務所に入って、とことん考えてみることだ」というような話。
ふたつめ、内田樹師匠がたしか書かれていた、「師を見るな、師の見るところを見よ」という話。
みっつめが、この本。たとえば、いま開いたページ。

人間の親子は、必ずすれちがう。とすれば、「すれちがいに強いこども」に育てる覚悟が必要。育児の天才ならこどもが思いどおりに育たないゲームを楽しめるのでしょうが、凡人はすれちがいを軽く受け流せる技をみがいておかないと対処できません。(中略。妊婦は、)きままな生活をすること。自分を律しすぎる人は、こどもが少しでもずれると抑制しがちになります。
(中略)
(親ばか、子煩悩、身びいきなど、「認識力の偏りという一種の脳機能不全状態」という)大自然の偉大な摂理には、素直にだまされることが肝心。
だまされるためには、わかろうとしすぎないことです。実際、親が知らなければうまくいくことがほとんど。(p168)

親やパートナーや親友、ひっくるめて「ツレ」として私ができることは、たぶん、寄り添うことだ。とことん、つきあう。こちらが少しでもよく知っている気になって、先回りして、「こっちおいで」と他人の原野(可能性とかいってもいいけど)を踏みつらかしてまわるのではなく、ましてや「転んだときにぜったい役に立つから」と杖を握らせるのでもなくて、隣にいて、彼女(だったり彼)と同じものを見ながら、「わ、きれいだね」とか言う、言い続けることなのだ。

少なくともそんくらい遠慮しとけば(って、相手には相手の固有の人生があることを考えると当たり前なのだけど)、まかり間違っても、「健全な精神を守る環境をつくろう」なんてオソロシイことばは出てこない。人間の歴史というものが、延々と続く「実験」だとして、とりあえずナチスは、わりと最近の、かなり大きな「失敗」なのだから、ともかくここはしっかり避けといてよし。断言。


なーんだ私、いいこというじゃん。と思ったら、『こども、こころ学』の副題が、「寄り添う人になれるはず」だったよ、すでに。いま気づいた。というわけで今回はやっぱり、徹頭徹尾、他人のことばの引用なだけなのでした。ね、いい話だったでしょ? そして3歳3ヶ月の娘の「創作前世話」はとどまることを知らず。こないだは春の甲子園を見ながら「むかしね、6さいのときにね、いったことある」アンパンマン高校の校歌まで歌ってくれた。すげえ。


こども、こころ学―寄添う人になれるはず

こども、こころ学―寄添う人になれるはず

・そういえば師匠にはこんな本もあったのでした。やっぱりかなわねえや。