死の視点から

遅ればせながら・・・クリスマスおめでとうございます!みなさまそれぞれによいクリスマスをお迎えだったようですね。我が家のクリスマスは19日のクリスマス礼拝に始まり、23日には自主保育の教会でのキャンドルライトサービス、24日は自分たちの教会でのキャンドルライトサービス、25日当日には友人たちとのクリスマス会に家族のクリスマス会・・・と、クリスマス大満喫!な1週間でした。母子密着生活ですとなかなかサンタクロースのお使いもままならない感じだったのですが、なんとかギリギリ間に合ってよかったです。去年私がミシンでガガガと縫った靴下の中に、幼稚園で使うハンドタオルやらお弁当用おはしセットやらをせこく!?ぎゅうぎゅうに詰め、あとは小さなおもちゃをひとつ用意しただけですが、2歳児はまだプレゼント(もの)の価値もよく分からないのでこんな程度でよしと思っています。むしろ、寝る前に枕元にセットした靴下の中にいっぱい何かが詰まっていて、それをひとつひとつ取り出す楽しさのようなものを感じてくれればとだけ思っていたので、まぁ「もの」は何でもよいのでした・・・なんて、幼稚園生活に必要なものを「プレゼントだよ〜」と渡すのもやはりせこいですね笑。ええもちろん、おばあちゃんたちからのプレゼントもその中に詰め込んでいたのでした・・・

こうして子どもにとっては「たくさん与えられる」クリスマスですが、教会学校では「与える」役割をも同時に子どもが担うようになっているのがいいなぁと思います。キャンドルライトサービスのときまでに手作りの献金箱をそれぞれに作り、お手伝いなどをしたお駄賃をその中にためて礼拝のときに箱を回収し、それらがユニセフやその他の慈善団体に寄付されるようになっていたり。もうちょっと大きいお兄さん、お姉さん(高校生以上かなぁ。大学生が中心ですね)になってくると、「小さい子どもたちのためにクリスマス会を用意する」役割をしたり。そうやって「与えられる」喜びだけではなく、「与える」喜びもセットとなるような仕組みがあるというのはいいことだなぁと思うのですが、自分の生活を振り返ってみてもなかなかそういう環境を作るというのは難しいなぁと感じますね。

・・・とここまで書いたのはおまけみたいなもので、以下にストック記事を掲載します。みなさま、今年もたいへんお世話になりました。よいお年をお迎えくださいね〜。

「死の視点から」

もう間もなく幼稚園入園のこ初々さん。というのも私の大学院生活とこ初々さんの幼稚園生活が同時スタートという状況は厳しいだろうと考え、幼稚園の先生がたと相談して満3歳児クラス(あかもも組さん)にちょっぴり早い目に入園させて頂けることになったからです。いやしかし、発達段階的に満3歳児さんは幼稚園生活には早いだろうと明らかに予想できるくらいのおちびさんたちなのですが、先生がたもそれはよくお分かりで、「あかもも組さんは、とにかく幼稚園が安心できる場所だということを知ってもらうのがいちばん。あかもも組の教室にいられなくても、ほかに大好きな場所、大好きな先生を作ってもらえたらいい。自分より大きいおにいちゃん、おねえちゃんたちと一緒にいることが安心な子どももいるし、それはそれでいい。そのうちに『ここが自分(の発達段階)にいちばん合ったことをしてくれる場所なんだ』と気づいてくれるし、それを待ちたいと思います。とにかく、『おとなの言うことを聞ける』子どもがよい子どもだとはこちらも思っておりません。」ということをはっきりとおっしゃって頂けるので、あんしん・・・初めての集団生活となると、親のほうはどうしても「枠の中におさまるのか」「ルールを守れるか」なんていうことをどうしても心配しがちですし、それが出来ないと「親として自分が責められている」なんていうふうな思考を辿りかねない・・・しかしもちろん最も大切なことは、子どもが安心して幼稚園生活に慣れていくこと、そしてそれを保障し見守ること。そうした中で「枠」やルールの大切さ、楽しさ、素晴らしさを伝えていってもらえることに安心しますが、親もそれは同じことなのですね。

それにしても幼稚園入園を間近にしてみると、「あぁこれからは手が離れていくばっかりなんだな。子どもとずっと一緒にいられるのは、ほんとに正味3年間の短い間なんだなぁ。」としみじみとします。こんなふうに思う時がくるとは!!大変な渦中にいるときにはずっと一緒にいることが「もうおなかいっぱい」な状態でしたし、時間はまっすぐに一直線にゆっくりとしかすすんでいきませんでした。「これがずっとは続かない」というのは理性で分かっていても、感情的には「ずっとずっとこの状態・・・」という果てしなさを感じずにはいられなかった。しかし振り返ってみると、もうすでに「いいこと」ばかりが思い出され、大変だったことの「大変さ」が薄まって「あっという間だった」としか思えません。「今がいちばんいい時ね。」「今だけだよ。」ということを周りの大人たちによく言われましたが、しばらくの間「・・・そうなのだろうか?」と半信半疑。しかし今はそう言われると、「本当にそうですね。」と素直に同意できます。いや、大変な渦中にいるときにも「今がいちばんいい時だ」「今だけだ」と確信できていたら、どれだけ幸福だったろうと悔やまれるほどと言っていい。時間は伸び縮みするのだということを、想像力をもって感じることができたら、どれだけよかったか。「こんなふうに思える時が必ずくるのだから」、3年なんていう短い間、もっと全力を出し切ったってよかったのに。オットとそんなことを話したりしています。

そして最近人生をうしろからみるクセがついてしまい、自分が死にゆくとき、その死の床できっと思い出し、最も輝いてみえるのは子どもと過ごしたこの日々だろう、と強く思うのです。「子どもはあっという間に離れていっちゃうよ。だからいられるときに一緒にいてあげなさい。」と口癖のように言う実母に対して、そのポリティカリーインコレクトな?というか無神経な発言にうんざりしていたのですが、もちろんそれは一般論として語ると「正しくない」。しかし母がその言葉にのせて自分の娘に伝えたかったメッセージは、子育ての日々は最も幸福な記憶として残っていくものだということ、それは渦中にいるときには分かりづらいことだということ、『だからこそ』語っていく必要を感じているのだということ、なのだと思います。それは若い私よりも、より「死」に近い視点から子育てを振り返ることのできる母だからなのだ。今ではそう思っています。それを「老婆心」と言ったり「余計なお節介」と言ったりするのだと思いますが、そこから出てくる言葉をすぐには理解できなくても、感情的に排さずに「聞く耳」を持てるようになりたい。そのような賢さを自分に求めたいものだと心から思うようになりました。