むずかしいことはわからない。

ひさしぶりに土曜日が休みなので書いてみることにしたと書いているうちに思い出したが、先週の土曜日も休みだった。ちなみに次の休みは12/21日(月)だ。そんなホッチキスの仕事のスケジュールなんてほんとにどうでもいい話であって、なぜ先週も休みだったのに何も書いていないのだろうかといろいろ思い出してみると、そうえいば先週は学会に行っていて、次の日も仕事なので日帰り強行軍だったもんだからじっさい家に変えてきたのは日付が変わったころだったのではないだろうか。だとしたらそのときですでにもう日曜日なのだから「土曜日じゃないからもういいか」と思って即寝したとしてもまったく不思議ではない。ええい、まったく読みにくい文章だ。特に内容もないので読み飛ばしてもらってもかまわないと思ってわざと読みにくく書いているのだけれど。それにしてもがばちょさん、大丈夫ですか?

先日から続いている子育てと信仰と超越論的な大きな存在についてのお話ですが、すみません、むずかしくてよくわかりません。各々のエントリーも難しくてついていけなくて斜め読みしかできなくて、そのこととこれから書くことが関係するのかかどうかもよくわかりませんが、最近いろいろと考えた結果は、怒りを感じたたときには怒ろうということです。

「これは感情をぶつけているだけではないだろうか?」とか「自分に子どもを叱る権利があるのだろうか」とか、「こうして怒っている自分を第三者的に見るとどんな感じなんだろうか」っていう自問自答も確かに無くはないです。「いまの叱り方はイライラした感情をぶつけているだけだろう!?」と家の人に言われると痛いところを突かれすぎてときどきそのことで落ち込んだりもします。でも、もういいんです。決めました。感情をぶつけているだけだと責められようが、怒ったときには怒ることにしました。怒ったときには怒るって日本語変ですね。とにかく、嫌な気持ちにさせられたり、それはおかしいと思ったら、信仰や大きな存在の問題を無視して、怒ろうと思います。もしかしてこういう意見って、この「7サプ」的にはアウトでしょうか?

これはホッチキスのごく個人的な意見ですが、ホッチキスは何かを行なうとき、決断するとき、神や超越的な大きな存在といった審級を介在させることを極力避けたいと思っています。特に子育てに関してはそう思っています。子どもを怒るという場面に限らず、子どもと対するとき、神や信仰の名においてではなく、彼ら彼女らの親として、ホッチキスとして対したいからです。もしかしたらそのことで子どもたちに恨まれるかもしれません。彼らを傷つけ、そして彼らを傷つけたことにホッチキス自身が傷つくかもしれません。でもその責任は神や信仰ではなく、このホッチキス自身が負わなければならないと思っています。もちろん、ホッチキス自身も神や信仰や超越的な大きな存在といったものを否定するつもりはありません。でも、そういったものを否定するぐらいの気合と覚悟で子どもたちには相対していきたいと思っています。出来ればの話ですが。

脈絡ないですが今ふと思ったのですが、親と子であることを決める権利というものがあるとしたら、子どもたちにその権利があってもいいのではないでしょうか。或る年齢になって「お前の親としての振舞いや考え方には生まれてこのかたずっと傷つけられたし失望した。自分はお前を親とは認めない」と言う権利が子どもたちに無い理由ってあるのでしょうか。ホッチキスの場合、かなり高い確率で親失格を宣告されそうですが。

話を元に戻すと、例えばホッチキスが子どもを怒っているときに、電飾のついたゴンドラでスーッと神が下りてきて、「まぁまぁお父さん。そんなに怒んなくてもいいんじゃないかな。ね?」なんて言ってきたら、信仰をお持ちの方には申し訳ないのですが、「てめぇには関係ないだろ!すっこんでろこのタコが!!」と怒鳴りつけそうな気がします。こんなことうちの奥さんには怖くて絶対言えないですど、神に対してならけっこう簡単に言える気がします。(話が戻っているのか・・・?)*1

・・・と、どうでもいいですが今回の内容はいままでの土曜日の中でも一番ひどいですね。これはひどい。絶望しました。

絶望で思い出しましたが、先日アマゾンで買った「さよなら絶望先生」の18巻にはアニメ版のOP・ED集DVDが付いていたのですが、素晴らしい内容でした。とくにこのヴァージョンのOPは、子どもの頃の気持ちがよみがえってきてちょっと泣いてしまいました。同じくちょっと涙腺が緩んでしまった人とは友達になれそうな気がします。え?お前となんか友達になりたくないですって?ですよねー。
と思ったらyoutubeにもあるのですね。

通常バージョンももちろん素晴らしいのですが。

というわけで、バファリンの50%が優しさで出来ているように、ホッチキスの文章は1パーセントのユーモアと98パーセントの冗談でできています。残りの1パーセントはもちろん(以下略)

*1:残念ながらこの程度の考えでは無神論とすら呼べない。なぜなら、一見すると神を否定しているように思えても、実のところ神あるいは信仰という外在するはずの審級を自分自身の基準あるいはうちの奥さんというかたちで代理表象化して内面化しているにすぎないからだ。もし無神論だとしても、無神論と有神論は見かけ上対立しているが常に既に同じ前提を共有しており、いわば各々が各々のネガとポジというの関係の上でしか二つの立場は存在できない。しかしながら、神や信仰が問題になる場面は、ホッチキスが何をどう考えようが避けることはできないだろう。例えば、散歩コースの途中に神社があるというような事柄ですら、親と子の関係において、神や信仰の問題が程度の差はあれ前景化すると思われる。