どんなにいいだろうけれど。

 がばちょ!どうした!…こういう時、遠くに住んでるともどかしいです。ゆっくり…できないかもしれないけど、ゆっくりしてください。

 初々さんのエントリーをきっかけに、いろいろ考えました。「政治と宗教の話はするな」というのがスマートな大人の不文律なのでしょうが、それこそ「シビア」な状況に置かれがちな子どもと、そこからあぶり出される自分にまつわるいろんなこと。どうしても、「もっと大きな存在」のことを意識する、意識したくなります。

 でも、これまで話してきたことと、またちょっとずれるのかもしれないのですけど、親子という関係において、私はもうひとつ、どうしたって「人間同士」なのだということを忘れないでおきたいとも思うんです。いつもいつも、お互いニコニコできればそれがいちばんいいけれど、そして理想の自分で、常にゆったりした状況で子どもに接することができればいいのだろうけど、肉体を持って生きる人間同士が一緒に暮らすということは、そうもいかないことが、悲しいかな、どうしたって起こってしまう。でも、それが「悪」だともまた思えない。そういう、一見よくないことの中にも、学ぶべきことや、将来的に糧になることが多分に含まれているのではないかと感じるのです。進んで「悪い親」になることはまったくないけれど、「良い親」になりたくて、なろうとして、でも時々どうしようもなく理不尽な状況に陥ったり、有無を言わせずやらせなくてはならなかったり…でもそれはそれとして、そこから子どもたちは親の「申し訳なさ」とは別の部分で、親を(ひょっとしたら何十年もかかるかもしれないけれど)理解したり、自分が親になった時に、逆に励まされたりするかもしれない。変なたとえですけど、「あ〜、なんかお母ちゃん、時々理不尽なこと言うときあったけど、生理前やったんかな〜。ふふ。ウチも気をつけよ」とか(関西弁あやしいですけど)。

 最近読んだよしもとばななさんの本で、強く共感した文章がありました。引用する前に、ばななさんが、別の場所で「私には信仰があります」と書いていたことと、私も「もっと大きな存在」を否定する立場にはまったく立っていないことを添えておきます。

 人生がきれいごとだったらどんなにいいだろう。
 みんないつまでもいけないところは改善しあって、かばいあって、守りあって、笑顔で接し合って、生涯孤独を感じないでいられたら、どんなにいいだろう。そう思っている人が宗教に入ってしまうんだろうな、と思う。
 でも人間はそのようではないし、きれいごとを創るためのエネルギーはけっこうばかにならないので、そんなことはどうでもいいからそっとしておいてくれ、だめなままでいさせてくれ、胸が苦しくてもすれ違ったままでも愛してると思わせてくれ、と私はきっと老後にも思うだろう。

ごはんのことばかり100話とちょっと

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