やめどきを知っているのは

理想の自己・・・
毎日こ初々さんと一緒にいるというのに、そんな切実な様子を見せていたなんてちっとも知りませんでした。まぁ関わる場面が違った、ということもあるでしょうし、見ようとしなかった、というのもあるでしょうし、あるいは関心どころが違う、ということなのかもしれませんし・・・でもきっと、親が二人いることの意味のひとつは、そうやって「見るところ」が違うということが含まれているのでしょうね。

さてこ初々さんが「理想の自己」に向かって成長している一方で、私自身もまた遅きに失している感は否めませんが、「こうありたい」というのを具体的に持つように心がける、ということをしています。その心がけの大切さは、ずいぶん以前に子育てをする上で「母親」という役割を身にまとうということを始めてうすうすとは気づいていたのですが、根が怠惰なものでその他のことに関しては「面倒くさいもーん」とか「私には出来ないもーん」とダラダラしておりました。(今でもダラダラしている部分の方が多いのですが、それはともかく)春先に始めた「ふんぱつノート」も忙しいどさくさで続かず(言い訳がましいですが、ほんとに忙しかった・・・)、気づけば「自分の持てる力を奮発して使う」よりも「忙しいから、力を溜め込む」ほうへシフトしていた・・・やれやれです。しかしやはり「いや、そうじゃないだろ!出来るか出来ないかはともかくとして、生活するにおいて、私はこうありたいんだ、こうしたいんだという希いを持たなければならん。」とまた一念発起してふんぱつノートも再開。これがいつまで続けられるのかドキドキしてしまいますが、でもね、やっぱり「こうありたい」を持って生活することはすがすがしいことなんですよね。そして、毎度(って2回目ですけれど)思うのですが、「このほうが自由だ」としみじみと思う。これは何なのだろう?論理的には、「こうありたいという理想像に縛られて不自由なのではないか」という疑問が生じるというのに。

その答えのヒントが、内田センセイの「街場の教育論」にありました。

ブレークスルーというのは自分で設定した限界を超えるということです。「自分で設定した限界」を超えるのです。「限界」というのは、多くの人が信じているように、自分の外側にあって、自分の自由や潜在的才能の発現を阻んでいるもののことではありません。そうではなくて、「限界」を作っているのは私たち自身なのです。「こんなことが私にはできるはずがない」という自己評価が、私たち自身の「限界」をかたちづくります。(中略)ブレークスルーとは、「君ならできる」という師からの外部評価を「私にはできない」という自己評価より上に置くということです。それが自分自身で設定した限界を取り外すということです。「私の限界」を決めるのは他者であると腹をくくることです。(中略)自分で自分の限界について考える必要がない。やりすぎたら、「先生」が「やめどき」を教えてくれる。実際には、人任せの「やめどき」などというものはないのです。でも、それが「ある」と想定すると、人間のパフォーマンスは爆発的に向上する。そういうものなのです。


はぁ。ため息。
そうなんですよねぇ・・・自分の能力を低く見積もって「私にはできない」と力をセーブする、あるいは自分で設定した能力の中でやり繰りしようと思うとしんどいし不自由なのですが、その仮想の設定を取っ払ってしまうと自由なすがすがしい気持ちになるということなのですよねぇ。この文章を初めて読んだときには、「子育てって常に自分の能力以上のものを求められるからつらい」と思っていたのが「あぁきっと私の限界を決定するのは、子どもなんだな。」と、単純に思いました。「こんなにロングスリーパーな私に、ショートスリーパーな子どもがものすごい早起きを要求する」という不幸な「おはなし」は、「この子がやってきたということは、私にも早起きができるってことなのね。」というハッピーな「おはなし」へ。そういう物語の再編を可能にしてくれました。そしてそれは子育てだけに限らず、「生活者」としての私に関しても同様のことが言え、「こうありたいけれど、自分にはできない(あるいは、もっと嫌なのは『私らしくない』)」ではなく「こうありたいなら、やったらいいじゃない」という気持ちになるのだから不思議なものです。ちなみに生活者としての私の師は羽仁もと子さんですが、今でももちろん「そんなことできるわけないじゃないか・・・」とうじうじすることのほうが多い中でも、「羽仁もと子さんが出来るって言ってくれている」と妄想できることが大切なのですね。その妄想こそが、「わたしのパフォーマンスを爆発的に向上させる」ために不可欠なものなのだと思います。

ところでそういえば元気いっぱいの自主保育の先生が、以前にこんなことをおっしゃっておられました。「私な、こう見えて体弱いねん。でもな、時々倒れるくらいが丁度いいの。だーーーっと突っ走っていきすぎて、倒れなかったら周りが迷惑。あはは。」・・・きっとこの方も「やめどきは、自分の体が知っている」と思って、あらゆることに全力を尽くされているのでしょうね、素敵です。私もそんなふうに、毎日を精一杯生ききることができたらいいなぁ・・・なんて、まだまだ「憧れ」レベルだからあかんのですね。でも来年4月から始まる院生生活(おかげさまで無事合格することができました〜)においても、師に見守ってもらいながらブレークスルーを経験できるよう頑張りたいと思います。