孤独に歩め。悪事をなさず、求めるところは少なく。林の中の象のように。

タイトルと内容はたぶん関係ありません。ふだんバカなことばかり書いているので、本当にホッチキスのことを頭がカラッポだと思っている人がかなりたくさんいると思いますが、でも実際、本当にけっこうカラッポなんですよね。だから今日はそんな人達の意表をついて頭が良さそうなタイトルをつけてみました。

タイトルの元ネタは『イノセンス』というアニメ映画のなかのセリフです。このセリフも元は何かからの引用のようです。先日、遂にうちにもIT革命の波というかデジタル化というか電脳化というか、そういうのが押し寄せてきて、DVDプレイヤーがやってきました。再生専用。アヴォックスという聞いたこともないメーカー。実家にあったのをもらって来ました。でも、リモコンを持って帰ってくるのを忘れてたので、操作は機械まで近づいてピシッピシッと操作ボタンを押さなければなりません。

はじめてDVDレンタルというものを経験しました。旧作だと五本で1000円。この『イノセンス』を観る前に、一緒に借りた『攻殻機動隊』というやはりアニメ映画を観ました。『イノセンス』はこの『攻殻機動隊』の続編にあたるらしい。

どちらとも、観ている途中で眠りかけたけど、とても面白かったですよ。いや、ぜんぜん皮肉じゃなくて、眠ってしまうほど情報量が多くて面白かったということです。ぜんぜんフォローになってない気もしないではないですが。

攻殻機動隊』のなかでの草薙素子(キャラクターについては説明省略)のセリフが印象に残りました。そしてこのセリフはこのシリーズ(テレビシリーズ版もある)をつらぬく大きなテーマを示唆している気がします。

私みたいに全身を義体化したサイボーグなら誰でも考えるわ。もしかしたら自分はとっくに死んじゃってて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないかって。いえそもそも初めから<私>なんてものは存在しなかったんじゃないかって。

前々回の土曜日、自分の子ども時代の写真を見つけたことを書いたが、写真とは乱暴な言い方をすると一種の外部記憶装置である。つまり、その写真の存在は、その写真の中の子どもと今子育ブログを書いているこの自分の同一性を保証すると共に、子どもだった自分についての周りの大人の証言を保証する紛れもない証拠である。つまり、この場合ホッチキスの〈私〉的なものは写真という外部記憶装置、それにまつわる証言・・・すなわちさまざまな情報の網の目、或る特性を有する情報パターンの集積によって成立している。つまり〈私〉は膨大な情報のネットワークの一結束点として成立している。逆に考えればこのネットワークの形態によっては様々な〈私〉が見出される可能世界がパラレルに存在していると想像することもできる。

だとすれば、子どものころの写真があるということが、どれだけ自分のアイデンティティの保証になりえるというのだろうか。写真が存在していることは事実かもしれないが、その写真の中の子どもと自分とを結びつけるのは自分が〈記憶〉と呼ぶあやふやなものと、他者の証言でしかない。極端な話、脳をハッキングされて、その写真と自分とを結びつけるような記憶の断片を埋め込まれているとか、他者がみんなで共謀して口裏を合わせているという場合には、その写真の中の子どもは、かつての自分である必要はない。

そう考えると、この世界には〈私〉どころか、確かなものなど何も無い気がする。ラッセルだっただろうか「世界五分前仮説」みたいな思考実験(つまり冗談)をどこかで書いていた。つまり「この世界は5分前に創造された」という仮定に対してそれをひっくり返すことは不可能だという冗談だ。そんなバカな話は無い、だって、自分は10年前、20年前の記憶も持っているし、世界には何百年も前の建築物や美術品がたくさん存在している、と反論しても無駄である。そうした記憶や歴史の痕跡もすべて一切がっさい一緒に5分前に創造されたからである。

もちろん、この仮説は5分前に何百年、何千年もの歴史や個人単位なら何十年の記憶を一挙に創造できる創造者の存在が前提となっていて、そこが冗談といえば冗談なのだが、話を戻すと、〈私〉と呼んでいるこの何ものかが情報ネットワークの中に偶然生まれた淀みのようなものであったとしても、そして、情報である以上、他の個体との間で或る程度同期が可能であったとしても、何ものにも変えがたい〈何か〉がある可能性はあるのか。それを意識とか精神とか、呼び方は何でもいいが、そういうものの可能性はある気がする。コンピューターや機械でさえ、同じOS、同じプログラムを組み込まれていたとしても、そこに個体差を感じるのはわれわれの経験上、或る程度は自明なことではないだろうか。いわんや有機体をや。

その〈何か〉は、今目の前で眠っている子どもたちの中にもすでにあるのだろうか。それは彼らだけのものなのだろうか。それとも、われわれ親が自分の欲望や希望を彼らに投影しているに過ぎないものなのだろうか。たぶん、おそらくどちらでもあるのだろう。その何ものかに対して親は何ができるのだろうか。情報化と情報の同期化のなかでその存在が危機を迎える〈私〉に対して「非互換性」を彼らに与えること、というのがきっと優等生的な答えなのだろうが、僕にもその答えがいいことなのか、何を意味するのかさっぱりかわからない。

要するに、ぼっちゃんやウニャ子がもう少し大きくなったら、こういうアニメを一緒に観て、今日書いたような中二病っぽいことをビール飲みながらグダグダ語って、「オヤジ超ウゼー」と言われたい、ということです。