いい子を演じるのに疲れないタフな子どもをつくる

平田オリザさんという劇作家さんが、ある雑誌でこんなことをおっしゃっていました。

あちらこちらで繰り返し述べてきたことだが、「いい子を演じるのに疲れた」と言って不登校になってしまう子どもたちに、「いい子なんて演じなくていいよ。本当の自分を見つけなさい。」というのは大人の身勝手にすぎない。本当の自分なんていない。私たちは、いい子を演じるのに疲れないタフな子どもを作らなければならないし、あるいはできることなら、いい子を演じるのを楽しむような子どもを育てたい。夫婦関係も同じだろう。(中略)日本では、演じるというと、何となくネガティブなイメージがあり、自分に嘘をついているような印象をもってしまう。しかし、演じるということは、それほどネガティブなことばかりではない。夫婦を演じることに疲れない、夫婦を演じるのを楽しむ家庭を作りたい。(中略)私たちは、とりあえず結婚するのだ。そして、夫や妻という役割を手探りで演じながら、どうにかして歩みより、少しずつ夫婦になっていく。

まぁおそらく多方面から(特にフェミニズム的見地から)異論があるかとは思いますが、この「子ども」と「夫婦」を「母親」にそっくりかえてみても「あぁそうだなぁ。」と私は頷けました。特に「よい母親を演じるのに疲れないタフな母親」「よい母親を演じるのを楽しむような母親」になりたいですねぇ・・・切実に、腹の底からそう思います。

それはさておき、確かに「いい子を演じるのに疲れないタフな子どもを作る」なんていうと「親の思い通りに動く、素直でいい子をつくる」なんていう誤解を招きそうですが、そうではないんですよね。おそらく「いい子を演じる」というのは、「本当の自分の欲求を抑圧し、他者のために働く」ということを表しており、「いい子を演じるのに疲れてしまう」というのは「他者のために働くのではなくて、本当の自分の欲求を満たしたい」という気持ちがむくむくと頭をもたげてきてしまった状態なのだと思うんですよね。しかしですね、平田オリザさんがおっしゃる通り「本当の自分なんていない」んです。ゆえに「本当の自分の欲求」なんてものは存在しない。しかしもしそれを存在せしめてしまえば、「本当の自分の欲求」なんていうものに際限はありませんから、それが満たされるということはない。そう、ですから「いい子を演じるのに疲れてしまう」というのはそのような不幸な構造の中で、自らの際限のない欲求に突き動かされながら、行く宛もなくぐるぐると周り続けている状態なのだと言えると思います。しかしながら他者との関係性の中に自分を立ち上げ、「本当の自分の欲求」本位ではなく、他者のために働くことを喜びとすることが出来るのであれば、「満たされることのない欲求」に蝕まれるような不幸の構造を自分の中に取り込まずにすみます。これがきっと「いい子を演じるのに疲れないタフな子ども」なんですね。子育てを通じて、そんな「幸福な構造」を子どもに贈ってあげたいなぁと思いますが、さぁどうなることでしょうか。大体自分がその構造を取り込むことに成功しているのか?というところもかなり怪しげなのですが、やっぱり自分自身も構造的に幸福になりたいですよねぇ。