子どもを魔法にかけよう〜物語の力〜

いや〜2歳児、パワフルです。小児科医の毛利子来先生が2歳児を表して「世の価値体系に挑んでいるかのように見える」とおっしゃっていますが、まさにそんな感じ。あらゆる決まりごとやルールや一貫性のようなものに、全力で抗ってはりますね。ですからこちらにちょっとでも強行な雰囲気、一枚岩な様子があると敏感に察知して、「ぎゃーーー!!!」と大騒ぎ。こちらが疲れていると余計に(自分が)頑なになりますから、「何でこういう時に限って」とぼやきたくなるような時にこそ修羅場はやってきます。いやはや、疲れて余裕のなくなっているときの、「視野がぐーーーんとせばまって、取りうる選択肢が減って、ぽきんと折れてしまいそうなくらいこちこちに固まっている自分」て、振り返ればなんで?と思いますが、どうしようもない時ありますね、ありませんか。私だけかも・・・

ちょっぴり前のことになりますが、ある時自転車に乗って遠出をして、「お友達の家に行きたい!!!」と泣きわめき、自転車に乗せられなくなってしまったため1時間ほども帰れなくなったことがありました。あらゆる説得も無駄、抱っこもぎゅーも無駄、ピクニック気分を演出しても無駄で、最終的に「お菓子あげるから」とおやつで釣って何とか家路につけたという、私としては納得のいかない場の収め方でした。そろそろ知恵もつきはじめ、「ものでつる」という形をとるのはいかがなものか・・・と思い始めた頃の出来事なので、与えたおやつを「美味しいね〜」とニコニコしながら食べる娘を見て「憎たらしい」とさえ思いながら自転車を走らせたあの敗北感のような感情・・・忘れられません。しかし遠出をしていたため長いこと自転車を走らせているうちに、「この年齢では、ものでつるという形で気持ちを落ち着かせることもアリなんだろう」という考えに至りました。このあたりはブログのケーススタディ(ケース3)で取り上げているので、ご関心のある方はそちらのほうを読んで頂ければと思うのですが、今回はこのケースを自主保育でお世話になっている保育の先生に相談して、私が軽く(いや、ずいぶん)ショックを受けたことについて。

とにかくどうにもこうにも気持ちを落ち着けられない状況の子どもに対して、どこかで「納得できる」落としどころを探らなければならない。世界とぶつかりながらも何とか自我を立ち上げようと必死になっている子どもの前に、一枚岩のように冷徹にそびえ立つ必要もないと思いますし、毎度挑戦して「敗北」だけ体験させるというのも酷な話です。しかし親のほうにも事情や都合もありますし、「きいてやれないこと」だって多々あります。そんな時に、お互いがどこで折れて、どう折れるか。それが大変難しい課題だ・・・私はそう思っていました。ですから「ものでつる」という方法はどうなのだろうかと考えたり、最終的にものでつる時にも「どう説明するのがよいか」と逡巡し、この時は「お友達のおうちに行きたいのに行かずに頑張ったね。頑張ったから、ひとつだけ好きなおやつをあげようね。」ときちんと説明するのがいいのだろう、というところへ考えが落ち着きました。しかしながら、保育の先生の答えはこうでした。「こ初々ちゃん(娘)も、お母さんも、元気になる素を食べて、元気いっぱいになっておうちに帰ろうか!と言ってみたらどうだっただろう」・・・・す、すごい・・・なにがすごいって、「頑張ったからあげる」という報酬の語法でも、「あげるから、頑張ろう」というものでつる語法でもなく、全く「新しい物語」を作ってしまうということだったから、です。その物語の中に入ってしまえば、「頑張る」「あげる」という因果関係を生きなくてよくなる。ですから親のほうとしては、「一回ものでつると、次々に同じように要求してくるのではないか・・・」という心配をしなくてすみますし、子どもの方にしたら「自分の願いをすりかえられた」という気持ちを持たずにすむ。そして「よーし、元気になって、一緒に頑張っておうちに帰ろう!」という共有できる目標さえ設定できてしまって、なんだか魔法みたい・・・そうだよねぇ。たぶん、子どもにとって必要なのは「論理」じゃなくて、「魔法」だよな。そう思ってしまいました。

しかしこの魔法の「物語」を紡ぎ出す力というのは、ものすごく高度な技ですから、すぐに誰にでも出来るというわけではないと思います。思い返せば私もそんな力に憧れ続けて未だ叶わずなんですよねぇ・・・というのも、数年前にこの魔法が得意な同僚について、私はこんな文章を書いていたのでした。

ある時彼女はぼんやりと「温泉に入りたいな〜。」とつぶやきました。それを聞いた患者さんが、「混浴でいいですか?」と冗談まじりに聞きました。すると彼女は、「人間はクマと一緒にはお風呂に入れないの。クマはだめ。」と答えたのです。その場にいた人たちはわははと笑って、その話は終わりました。

何がすごいって、この会話で誰も傷つかないですよね。「混浴でいいですか?」と聞かれて、「もう、いやらしいんだから。」という答え方も可能ですが、そうすると聞いた方も「言ってはいけなかったかな」とばつが悪いですし、答えるほうもそのばつの悪さを感じて後味が悪いものです。そういったばつの悪さをしっかりと回避しながら、なおかつ「混浴はできません」というメッセージは伝えている、それがすごいと思うのです。

どうしてそんなことが可能なのだろうか、と考えたときに、彼女は瞬間的に現実を物語に編成する能力が高い、と言えます。「○○さんと××さんの間での会話」という現実から、「人間とクマの会話」の物語に瞬間的に置き換えてしまうのです。そうすることで会話の主体がそれぞれ本人から、「人間」と「クマ」に置き換わります。そこでは「ダメ。」と言っているのも彼女ではなくなる。「ダメ。」と言われているのは患者さん本人ではなく、クマ。そして「ダメ。」な理由も、いやらしいからではなく、「クマだから」。会話を物語に変えてしまうことで、要するに「角がたたなくなる」んですね。

・・・今振り返ってみても、その時の私の「感嘆」というよりは「驚愕」・・・忘れられませんね。最近では上司のさむーい冗談に、「・・・正解です!」と彼女が答えた、というエピソードがあるんですが、それもすごいですよねぇ。その冗談の「面白さ」を尺度にして答えずに、ただ「正解です!」という言葉が出てくるなんて・・・どうやったらそんなことが出来るのかしら。私はただ力なく「ははは」と笑うのが関の山だったんですけどねぇ。才能って、すごい。

いやはや、話がどんどんずれていってしまいましたが、「現実」にがんじがらめにされてしまった状態を抜け出すために、子どもを「魔法にかける」って大事だなと思った次第です。まさか子育てをして、魔法力に磨きをかけようと思うようになるとは。人生何が転機となるか、分かりませんね。