鼻水は水飴。ヨダレはミルク。 Probably, I hope for the best.

いきなりフェティッシュな写真をさらしてみる。

ところで鼻水とヨダレの痕、というその点だけを共通要素とした大人の写真は見るに耐えないものが多いのに(とは言え、それほど多くの大人の鼻水とヨダレの痕の写真をみたわけではないのだが)、赤ちゃんの場合は多くのばあい正視に堪えるのはどういう理由からだろうか。匂い?たしかに赤ちゃんのヨダレはあまり臭くない。どっちかといえばヨーグルトとかチーズっぽい美味しそうな匂い。しかし写真だったら関係ないはずだ。いや、写真というメディアそのものが視覚的メディアにとどまらず、様々な感覚を呼び起こす共感覚装置だとすれば・・・。
ここまで書いといてなんだが、別にこの問題を深めようとか、そういう気はさらさらないのは言うまでもない(二重否定?)。


ポンポコ温泉には誰でも入れる。しかし、ここまで気安くはいかない場所もあるだろう。たとえばダンテの『神曲』地獄篇に出てくる地獄の門にはこう書いてある。

Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate' (この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ)

誤解を恐れずに(別に誤解されてもいいが)言おう。子育てに関わる男は、この言葉を憶えておくといいと思う。


ただ一つだけ誤解してもらいたくないことがあるとすれば、この文句が地獄の門に書かれているからといって、ホッチキスは子育てが地獄だとは思っていないということだ。逆に天国だとも思わない(地獄の逆が天国かどうかも疑問だが)。子育ては子育てである。それが地獄のように思える人にとっては地獄かもしれないが、もちろん地獄のように思えることそれ自体を否定する気もない。子育てにそういう側面があることはこんな僕でも十分に痛いほど思い知らされた。しかし、何を知っているというのだろう?
子育てという文脈において、議論が盛り上がる、ポレミックな話題というものがある。もちろん、そのような議論の盛り上がりは有益なものだと思うし、こうした場には不可欠なものだと思う。それでもなお、男である僕は言いようのない所在無さを感じてしまう。この所在無ささは何だろう?


自分で言うのも何だが、僕は炊事、洗濯、掃除、その他家事諸々もけっこう手伝う方だし、ぼっちゃんが6ヶ月の頃から半年間、昼間はずっと子守もしていた。町主催のお母さんたちの集まりにも参加したりして、まぁホッチキスにしてはよくやったかな、とは思う。ほんの少しだが。
ここ最近のコメント欄での活発なやりとりを読んだ妻の「この気持ちはよくわかる」という言葉にハッとした。子どもの世話で大変な奥さんのかわりに家事を手伝ったり、子守をしたり・・・でもそういうことって、はっきり言って、お母さんたちにとっては本質的なことではないのだ。僕のやったことだって、「それで?それであなたは女の苦労が全部分かったつもり?」なんて言葉を一言吹きかけられでもしたならば、ひとえに風の前の塵に同じ。
誤解してほしくないが、「だから男はなにもしなくていい」とか「子育ては女の仕事だ」ということを言いたいのではない。オムツ換え、買い物、洗濯、掃除、子どもを連れて散歩・・・できることは何でもやるべきだ。お母さんの代わりになることは望むべくもないが、しかし、それでも周辺的なことはたいてい、何とかやれる。そして、すべてのお母さんたちはそういうことを要求する権利を十分に持っている。というか、権利があるとか無いとかいう問題ですらない。
そうではなく、ただ僕が言いたいのは、そういうことをすることでお母さんたちの力になっている(力になることができる)という希望を持つのはやめたほうがいい、ということだ。
男の側が「自分って、たいしたことやってるなぁ」と思っていても、彼女たちにとっては、それは全く普通のことだったりする。100メートル走の選手に向かって「オレ、100メートル走れますよ」と自慢しているのと滑稽さでは同じことだ。
ではどうすればいいのか。見知らぬ男が僕の肩を後ろからポンと叩いて呟く。「残念だけど、感謝されることも感心されることも、君はこの後ずっと期待しないほうがいい。君が望んでいるようなことが起こる確率は限りなくゼロに近い。でもね、君にやれることはただ一つ。君は今までどおりそれをやり続けるしかないんだよ」と。
もちろん、実際にそうした男側の協力がお母さんたちにとって力になり、助けになることは十分にありえる。それは否定しない。しかし、そういう結果と、男の側がどういう希望を持っていたかとは、あまり関係が無いように思える。僕がどういう希望をもっているかということと、将来どういう結果が生じるかということは、無関係とまではいえないが、別の問題なのと同じことだ。


うろ覚えだが、どんなに悲嘆と失望とに押しつぶされているときでも、すでに私のまなざしは前方をまさぐり、何か光り輝くものへと向かって自らの生存を再開する、と書いたメルロ=ポンティは正しかったのかもしれない。希望を捨てろと言っておきながら、それでもやはり希望というものを考えてしまう。しかし、少なくとも、希望か絶望かの二者選択の一項としての希望ではない。もし希望というものがあるとすれば、希望なきところに見出される希望、のようなものだろうか。レヴィナス風にいえば、救済なき信仰、のようなものか?


柄にもなく子育てについて熱く語ってしまった(そのわりには内容がムチャクチャだし、そもそも語るべきことも無い)。今後は控える。あまり普遍性がないので。来週からはまたいつもみたいな犬の漫才師*1に戻る。

(追記)
読み返すと、まるでホッチキスが奥さんに怒られて凹んでいるような情景を思い浮かべてしまう人がいるかもしれない。しかし、ご心配なく。今のところそういうことは起こっていない。今のところは・・・(笑)。
しかし、妻の言葉を続ければ、家事を手伝ってくれるホッチキスに感謝というのは、少し違うらしい。正確には感謝ではなく、せいぜいのところ「なんとかマイナスは免れている」という程度のことらしい。なかなか正鵠を射た表現だと思う。