かえっこしたい。

supply72009-03-20


(そのおでこには、目の前のものがどんなふうに入ってくるの?)

 私は長崎のことを考えたりするのが仕事でもあるので、町を歩くときは、なるべく「初めて見るような気持ちで」というスタンスを心がけていますが、かれこれ40年近く馴染んでいる町なので、うっかりすると目が流れてしまいます。でも、風景や事物については地道な訓練が功を奏し、ある程度は視線から「生活臭を抜く」ことができるようになりました。もちろん抜きっぱなしだと、いつもの店に買い物に行くにも地図が必要になるので、それはたとえば霊能者のごとく、その「能力」をコントロールしています。ただ、どうしても抜けないのが「字が読める」ということ。標識や看板の字が読めなくなる能力をコントロールできれば、もっと「見える」ものがあるに違いないと思うのですが、一度読めるようになってしまったものは、どうやら取り返しがつかないようです。
 でも、私のすぐそばに「生活を共にし、会話も通じているというのに、字は読めない」という人がいました。絵本をめくりながら、そこにある文章をちゃんと*1口に出しているけれど、文字を読んでいるわけではない人が。これが大人であれば「文盲」となり、救済や同情の対象とさえなってしまうのに、彼ときたら、正々堂々、字が読めないのに生きており、エンドレスに喋り続けています。言葉は決して文字とイコールではない。
 「読む」ということなしに、見たままを見られる。これって、すごい状態なんじゃないか。ものすごく貴重な状態なんじゃないか。
 時に「字が読めなくなりたい」とさえ思う私から見ると、どうしてもそう思えます。もちろんこの状態は、保育園の組が上がり、さらに学校へ行くようになり、また、文字が読めることによって得られるものも大きいわけですから、長くは続けられないでしょう。でも、できるだけ「読めない」ままで見た感覚を、たくさん体の中に貯金しておいてほしいです。この日本で、普通に暮らしていたら、嫌でも読めるようになってしまう。小さい子が字を読み書きできることよりも、読み書きできないままにどれだけのものを見たり聞いたりしたかのほうが、私には大切に思えます。それに、大きくなってから字を読めるようになるのって、楽しそう。
 いいなぁ、ヒコ。字が読めない目を、時々、かえっこしてくれないかなぁ。

*1:時々勝手な改訂あり。例「ひこたくんというおとこのこが」→「かわいいひこたくんというおとこのこが」、「げんばくびょういんや しみんびょういんに いそーいで きゅうきゅうしゃはつれていきます」→「げんばくびょういんや しみんびょういんや さいせいかいびょういんに(以下同。ちなみに『さいせいかいびょういん』は、昨年じーじが入院した病院)」(母著「きょうもあえたね」14p、10p)