ケーススタディお引っ越しのお知らせ

[子育てのケーススタディ]
こんにちは、初々です。
はりきって始めた「ケーススタディ」ですが、私自身の準備不足に加えて「形にこだわりすぎてしまった」ために、ずいぶん空回りをしてしまったようです。なので形にこだわらず、みんなで「あーだこーだ」言える場作りを目指して、試行錯誤をしたいと思い・・・一度、自身のブログ「京都生活手帖」にお引っ越ししたいと思います。お騒がせをしてしまって、どうもすみませんでした・・・しゅん。

人と人との関わりは、たった一度きりの真実。いろんな複雑な要素が入り交じって、「そのとき、一回きりのやりとり」が成立するもの。そこには、「どんな場面にも通じる唯一の方策」などという普遍的な解決策はありようがありませんが、「そこで一体何が起こっていたのか」という視点・・・つまりその状況(物語とさえ言えるでしょう)を読み解こうとする視点は、「次の困難事例」に直面した私にヒントを与え、支えてくれるに違いありません。ですから「ケース」は「こういう時に、こうしたらいい」というマニュアルでも、また「規範」というものでもなく、「物語とその解釈」というふうに私自身は思っています。物語の解釈は人によってずいぶん違うでしょうし、そこに「正しい読み方」はありません。しかし「こうも読めるんじゃないの?」という意見は、凝り固まってしまった自分の読み方に風穴をあけ、ときほぐし、新たな視点をもたらしてくれるのではないか。私はそのような期待をこめて、ケーススタディを始めたつもりでした。ところがどうやら私の力量不足で、その大切なところを伝えられずに、妙に規範的な振る舞い(というよりは物言い)ばかりが前面に出てしまったようです。これでは(トンビさんの素晴らしい言葉をかりれば)「後続を楽に」というこのブログの趣旨に反してしまう一方だ・・・というのが「一時お引っ越し」の理由でもあります。

また「ケーススタディ」というのは、基本的には専門職が「よりよいケア」を提供するための、いわばスキルアップの方策でもあります。ですからどうしても自分の行為を批判的に振り返りますし、他者も批判的にケースを見つめます。しかしそこで「こうした方がよかったんじゃないの?」という批判や意見に個人が傷つかずにいるのは、「ケースとして提供した時点で、ケースの『私』は『この私』ではなくなる」からなのです。つまり、「ここに書いてあるのは私に実際におこったことだけど、検討されている私の行為は私とはべつのもの」とみなす「からくり」がある。そうしなければ、遠慮なく批判したり、されたり出来ないですよね。そうした「私」の解離は、「専門職」という枠が守ってくれているので出来ることでしょうが、普通一般的にはそんなことはなかなか堪え難いですし、どうしたって「パーソナルに受け止めてしまう」ものだと思います。それが、ケーススタディを展開させにくくしている一因なのではないか。そう考えると、ケーススタディをすることで個人が傷つくようなことがあるのだとしたら、それこそ「している意味がない」。私の場合は「そのように訓練されている」ということに加えて、以前にも話したとおり「親」役割という枠が私を守ってくれているので、ケースとしてあげた私の行為をいくら批判されても、傷つくということはまずないと思いますが、この方法論でどこかの誰かが傷つくのであれば、しないほうがましということになります。

というような思いに基づいて、とにかく「ケーススタディ」という言葉は残しますが、私が一度展開したような方法での継続はいったん中止しようと思っています。しかし「子どもとのやりとりという物語の読解」については、形をかえて続けていきたいなぁと思っておりますので、どうぞご関心をもたれる方は、自身のブログのほうへもお立ち寄りくださいませ。