文庫本の角

 「ヒコ、おおきくなったら、ヒコのおかあさんになる」と、しばしば宣言されます。その都度、「うーん、難儀だけど、なかなか楽しいよ」とか「安定はしてないけどね」などと、「経験者」としてのアドバイスをするのですが、ほんと、彼の眼にはどう映っているのでしょう。「母親の概念」を形作る、大きな「実例」が私ってことは、母親というものは「常に部屋の中に読みかけの本やら描きかけのけったいな絵やら、妙チキリンな工作やらが散らばっていて、食いしん坊で酒飲みで、日常生活に『お友達』が見当たらない」というような人が「母親」であるってことになってしまうのですが…。あと、同級生のお友達のお母さんと比べると、明らかにオバハン。まぁ、どれもこれも今更どうしようもないことですので、そこは、私の息子であることを楽しんでいただきたいです。
 でも、正直なところ、読んだり書いたり描いたり…そういうことをする時間が絶対的に減ってしまったつらさに、しばし身を締めつけられます。「可愛い盛りの子どもがいる幸せ」を引き合いに出されたら、もちろん勝ち目はないし、そういう「つらさ」こそが、なにかを作ったり読んだりする上においては、むしろ「よきもの」であろうということも、想像はつきます。私の机の前には、数ヶ月前の内田先生のブログが貼られています。

 私は「等身大の明晰」ということをたいせつに考えている。
 日常の、ご飯を食べたり、眠ったり、働いたり、遊んだり、怒ったり、愛したり…という身体感覚に裏打ちされた「明晰さ」を保ったまま、非日常的な倫理の深度にじりじりとにじり寄ってゆく、というのが私の願いである。

 「生活感なんかひきずらない方が話が早い」というひともおられるだろうが、私は生活感に裏打ちされた論理以外を信じることができないのである。


 だから、いま、こうしてヒコにザクザクと時間と体力を取られ、その上で出てきたもの、読めた本だけが、「ほんとう」なんだろうな、と思うんです。思うんだけど、でも、でも、それでも「寝食忘れたい欲」っていうのが、自分の中で暴れだしそうになることがあるのも、まったく否めません。
 持って歩くだけの時間の方がはるかに長い文庫本の角が、そうして今日もまた、少しだけくたびれていくのでした。


 と言いつつ、今度の火曜日から、長崎市古川町の「カフェ豆ちゃん」で、個展(!)をやります。昨年出した「長崎迷宮旅暦」の写真やイラストを中心に、それを使ったオブジェや、時々夢に見る「異次元の長崎」の風景の絵の展示、ケーブルテレビで作っている「ペコロスの唄地図」のダダ流しなどなど、盛りだくさん。お近くの方はぜひお立ち寄りください。