パパ、だいじょうぶ?

1日遅れで投稿です。今週はほんとどうしても時間なかったので、いま1週間分の「お隣さん」の日記を読ませていただいたところ。あ、ってことは、がばちょさんと同じ日に髪、切ってる! あ、うちもお腹の中が女の子だと報告したとき、ごく悪気なく「一姫二太郎っていうからなあ」と言われてキョトンとしたよー。ん、ツレにむかって「ニーニャの不機嫌やなんかを、自分の言いたいことにかこつけて意味をもたせて私へのあてつけのために使うのはすごくずるい!」と抗議したのも今週か。と、あらゆるところにシンクロニシティ

縁があるひととは奇妙にシンクロニシティがあったりするのだけど、それに加えて、「子育て」という体験がもたらす「同じ感慨」も多いような気がする。ちょっと離れているけど、大きくくくれば同じ前線にいる、というか。って、ここは戦場か。あっ!

内田樹研究室内長屋「今夜も夜霧がエスパーニャ」に書こうと思いつつ時間がなくて手つかずになったままのネタなのだけど、言葉遣いには気をつけよう。いや、違うんだけど。あのね、本来は戦争にかんする用語であるものが、どう使われているかちょっと気になったら、すごく気になってきた。たとえば野球とかサッカーとかスポーツ競技の国際大会ね。「決戦」「戦犯」「敗将の弁」「斬り込み隊長」、だいたい「巨人阪神戦」だもんね。戦争か! 負けると命まで取られるのか? シーズン中の1「試合」だろう? スペイン語でそれに相当する表現をしているかは未確認だけど、パッと思いつくものはない。日本語人の特徴のひとつかもしれない。(それは、実現されなかった第二次大戦での対米本土決戦のアヴァターなのか? というのは内田樹のブログからヒントを得て)

人間は言葉で思考する生き物のようだから、スポーツ競技の「試合」を「戦争」になぞらえて語っているうち、ほんとうに戦争気分になる。「国辱」とか言っちゃったりしてね。「日本人として恥ずかしくないような」、ってどんなサッカーだ。んじゃ「日本人として恥ずかしくないようなローラースケート」とかもあるのか。お前のクリームソーダの食べ方は日本人としてどうなんだ。

ともかく、日常の言葉に、安易に戦争を持ち込んじゃいかん。そう思っていた矢先に、自分が「子育てという同じ経験をしていること」を説明するのに、不必要な「前線」なんて言葉を使っちゃったもんだから。それ同じように、権力者だけが使える言葉遣いも、できれば家庭(というか人生)に持ち込みたくないと思っている。たとえば「こんなことしていいと思ってるのか?」(これに「Yes」と答えるのはアウト、「No」と答えても「じゃあ、なぜやったんだ!」と更に逃げ場をなくされる、つまり結局は「すみません」以外の答えを許さない質問*1)。いや実際には、口に含んだジュースを志村けんのコントみたいに満面の笑顔で口開けてダーってこぼされると、齢若干2歳のニーニャに向かって「くぉらあ! なにやってんのーお!」と叫んでしまうんだけどね。まあそのたび、反省してるです。

今朝は、テーブルでの朝食が終わってパンと牛乳を手によちよちとテレビの前に移動中のニーニャが、ジュースのコップと皿を手にして彼女のうしろをついてきたツレに、「パパ、だいじょうぶー? だいじょうぶー?」と何度も言っていた(らしい)。そうか、いつも彼女がお皿とコップをもって運ぶとき、「だいじょぶ? こぼさないでね」って言ってるもんねえ。まったく信用してないんだな、ヤツのこと。こうして彼女がくりかえす私たちの言葉に、私たちの「失礼な」言葉遣いを思い知らされる毎日。なんかちょっと申し訳ないです。

*1: 正確には、内田樹著『態度が悪くてごめんなさい』等をごらんください