どうでもいいんだけれど

どうでもいいんだけれど(一回目)、今日妻の検診について行った折に、妻の順番を待っている間、待合室でわたせせいぞうの「ハートカクテル」を読んだ。以前からこの産婦人科わたせせいぞうが充実していて、もしかしたら先生の年齢的にも、医学生時代から若手医師としてブイブイいわせていた時代が、まさにこの「ハートカクテル」の時代だったのかもしれない、と思いつつ、パラパラと、それこそ冷やかし程度に眺めていたら、今日は、不覚にも涙が・・・。
わたせせいぞうの「ハートカクテル」って、若い人にはもうわからないかもしれないけど、僕らの年代的には「いまふりかえって見ると、すごく恥ずかしいものかもしれないランキング」ベスト3には絶対入ると思うのだが、そういう偏見を捨てて、虚心で読むと、すごく優しくて誠実な物語だったんだと、この歳になって再発見。いや、子育てブログ的にはどうでもいいんだけれど(二回目)。

ところで、やっぱりどうでもいいんだけれど(三回目)、『現代思想』の臨時増刊最新号「総特集 メルロ=ポンティ 身体論の深化と拡張」は個人的にすごく買いだった。寄稿している人たちがけっこう学会なんかで会ったことのある人たちばっかりだったので、読んでいると文字テキストとその人たちの声や身振りが妙にシンクロされて、こういうことがテキストの身体化というものだろうかと思った。それはどうでもいいんだけれど(四回目)、この本のなかでも西村ユミ「患者を理解するということ―看護師の経験、その身体性に学ぶ」は興味深かった。話は精神看護実習に来たAさんが患者である壺井さん(仮名)を受け持った経験をテストケースとして進んでいく。

「患者を理解すること」に関して、確かに数値化された客観的データはチーム医療を成立させるために不可欠なのだが、看護者→患者という一方向的ベクトルを前提としてしまうと、患者は単なる「対象」となってしまい、「看護師は見る主体でありながら、客観的という背後にその(患者の)存在を隠蔽する」(上掲書p.213)結果となってしまう。むしろ重要なのはそうした主‐客の二項対立を超えて、患者についての情報が情報として意味を持つ手前の、「患者と看護師が出会う場」における出来事の意味を問い直すことだと西村は考える。だからこそ次のようなメルロポンティの言葉も意義深いこのとなるのだろう。

私の問う患者の状況は、私自身の内部で私に現れるし、また、この両極的現象の中で、私は他者を知ると同様に、私自身を知ることを学ぶのである。必要なのは幻覚と〈現実〉とがわれわれに現れ出る実際の状況の中にわれわれを置き戻し、それらの具体的な分化を、これが患者との交流のなかで起こるその時点で捉えることなのである。(『知覚の現象学2』p.196-197)

・・・・と、まぁ、こういう議論は現代のケア論においては基本的な話の筋なのだろうけれど、こういう分野にはとても疎いのでこの論考を読んで初めて知ったのだが、普通に考えて、病名や症状等の客観的条件によって医師と患者のカップリングが決定されると思うのだが、ここで取り上げられている精神看護自習では、それに先立って「まず病棟に入って患者と出会い、その中から学生が関心を持った人を選び出し、受け持つことの承認を得てから担当をさせてもらう」(同p214)らしい。この分野ではこういうことは普通なのだろうか?何かとてつもないことがサラッと語られている気がする。実際、Aさんが壺井さん(仮名)を受け持つことを決めたのも、深い理由はないが、何か気になった、というものだった。

この論考全体を要約する余裕はないが、Aさんの語ることがいちいち大事な気がする。

何かけっきょく、すごい自己中心的なんじゃないかっていうのを思って。でも、それを考えたら、けっきょく今までの実習全部、自己中心的だったと思って。皆、「患者の立場に立って」みたいなことを言うけれど。でも患者の立場に立つってどういうことなんですか?(同p.220)

・・・でも患者さんは急いでないですね。だから普通にその人と関係作っていくなら同じペースで一方通行じゃなくできるのかなって今思いました。(同p.220)

話は飛躍するが、では、子どもの立場に立つってどういうことなのだろう。そもそも立つことができるのだろうか。そもそも立つ必要があるのだろうか。いったいどれだけ子どもと同じペースでいられるのだろうか。確かに、彼らは急いではいない。もちろん、おもちゃ売り場を見つけたらすごい速さで駆け出すが、彼らは何ものにも追われてはいない。

くりかえすが、子どもたちは急いではいない。もちろん、検診のたびに「いつ出てきてもおかしくない」と言われ続けているウニャ子も。

今年はウニャ子誕生のニュースを自分の担当日にすることができなかったのが残念ですが、よくもまぁ週一回の更新をやってこれたものです。自前のブログですら、ちょっと油断すると週間ぐらいなにも書かないことがあるというのに・・・。まぁそれはどうでもいいんですけれど(五回目)、みなさん、よいお年を。