それは降ってきた。

アイリさんはじめまして!(と同時に)ようこそ子育ての森へ!
アイリさんちのNHK大河ドラマ並みの登場人物の数に圧倒されました・・・。今も昔も近くに親戚と呼べる存在がいない環境に暮らしてきた者としては、毎日例えばいとこ同士と顔をあわせて、ご飯を食べたり遊んだりする暮らしって、いったいどんな暮らしなんだろうと思うと、うまく想像できません。
でも、こんな僕にも子どもの頃は年に数回、盆と正月に母方のばあちゃんちに親戚が集まり、いとこたちとサイダーを飲み、大人の宴会が終わるとただでさえだだっ広い田舎の家じゅうにフトンがひかれ、それでもたりなくて廊下で寝てたりする祭りのような不思議な時空間がありました。何年も会っていないいとこたちのことを思い出しました。

ところで、うちの奥さんも産休突入まであと2週間。だんだんといろんなことが現実味を帯びてきた今日この頃ですが、そう考えると、もうあと1ヶ月半ぐらいなんだーと能天気なことを言っている場合ではないのかもしれません。
そういえばうちのぼっちゃんのときも、予定より2週間ほど早かったので、何が足りなかったというか準備できてなかったかというと、「名前」でした。もっと前に決めとけよ、と蹴りも入れたくなるのが人情ですが、ひと一人が一生使っていく名前を自分達が決めるということにプレッシャーを感じるのもまた人情。っていうか、一応、候補は一つか二つあって、あとは決断だけだったのだけれど、その「ふんぎり」が優柔不断なホッチキスには難しかったというだけのことなのかもしれません。

ぼっちゃんのときは、子どもに名前をつけるなんてもちろん初めて。白い紙を前にいろいろな漢字を組み合わせたり、音に漢字を強引に当てたり・・・でも、それらのほとんどは「夜露死苦」レベルのものばかりで、われながらグッタリ。
ちょっと一休み、と思って視線を上げると、本棚の或る一箇所に自然と目がとまりました。そこには一冊の文庫本の背表紙。そしてその著者の名前のなかの或る一文字の「かたち」にまず惚れました。さらにいろいろ意味を漢和辞典で調べてみると「満ち満ちている様」「ものごとの始まり」など、なかなかいい意味ではないですか。この時点で、おそらく心は決まっていたのでしょうが、いざとなるとちょっと弱気になるカンガルー。でも、今ではかなりいい名前だなぁと思っています。
だから、頭をグイグイひねってひねり出したというよりも、文字通り「降ってきた」という感じですね。
ちょっと変わった名前なので、よく意味を聞かれるのですが、そのときに「えーと、ものごとの始まりとか、そういう意味があります。だから意味的には『はじめ君』ですね。」と言うと、それ以来その人はしばらく「はじめちゃーん!」とぼっちゃんのことを呼んでいました。なかなか訂正しづらくて、だからぼっちゃんは対外的にしばらくは「はじめちゃん」でした。
うちはどちらかというと漢字の意味のほうを重視して決めた気がしますが、ぼっちゃんの同級生のご両親は最初「カタカナで、特別な意味を持たないような名前にしたい」という希望を持っていました。そのことでそのご両親と、ご両親の親(つまりそのうちの子のじいちゃんばあちゃんたち)とのあいだでちょっとした論争があったらしいのですが、実際には、季節感溢れる、もちろん漢字を含む、それはそれとして素晴らしい名前なりました。
でも、「意味を持たない名前」をつけたいという願いも何だかわからなくもないなぁという気もします。子どもに名前を贈るということは、それは「言祝ぐ」ことであることはもちろんなのですが、それと同時に、それがどういう意味であれ、親の願いとか思いを子どもに背負わせることを同時に意味している気がするからです(と、彼らが思っていたかどうかは僕にはわかりませんが・・・)。何か真っ白なものの上に親のエゴを刻み込むような後ろめたさがあるといえばあるような・・・考えすぎでしょうか・・・。
もちろん、それはものごとを暗い側からみているだけなのかもしれません。たとえ「それ自体意味の無い」名前をつけたとしても、その名前が「『それ自体意味は無い』という意味」をもつことにはかわりないわけで、でも、そういうややこしいことは抜きに、やはり子どもに名前を贈るということは、ただ単に生物学的な意味での生命ではなく、この世界の住人としての、同胞としての彼らに「いのち」を吹き込むことなのかもしれないなぁと思ったりします。
またまた良い格好して良いこと言おうとしてよくわからない文章になりました。だから今週はこのへんで失礼しますが、最後に、名前をいろいろ調べているうちに出会ったユニークな名前についてのクイズです。
「綺茶」ちゃん。
なかなかパッと見、いい名前っぽいですが、「ああ、あの人ですか・・・」な名前です。案外有名なので簡単かもしれませんが、答えは註のところで*1

*1:キティちゃん