誰がドアを開いたのか

先日、保育園から久方ぶりの「発熱コール」。
ちょうどその日は妻も仕事が休みだったので、さっそく車をスッ飛ばしていくと、真っ赤な顔をしたぼっちゃんの熱は38.2度。う〜ん、最近ではそう見ることのできなかったハイ・スコアだ。

幸い、熱はほどなく下がって、翌日には再び登園。っていうか、この熱を出した翌日というのが実は問題で、本当はもう一日休ませて様子を見たいところだったのだけれど、どうしてもこの日だけは妻の仕事の手伝いで、僕も一緒に山を下りなければならなかったのだ。

いろんな公共機関を回ったりなんだりで、どう考えても保育園の迎えの時間に帰ってくることは無理*1

そこで、妻の職場の同僚の方に迎えに行ってもらい、僕らが帰ってくるまで預かってもらうことになった。その方の子どもさんとぼっちゃんが同じ保育園だったのは本当に幸いだった。ぼっちゃんはそのお宅で夕飯までご馳走になって、お姉ちゃん・お兄ちゃんも含めた子どもたちみんなで一緒に走り回ったり、テレビを見たり、ゲームをしたり・・・僕らが迎えに行くと「帰りたくない」と号泣・・・。

あとになってふと思った。
このことをどう考えればいいのだろう?

別に思うことも考えることもない。良かったじゃないか。それとも、何か不満でもあるのかね?
不満なんかあるわけない。ほんとうにありがたいと思っている。もし、近くにこういうことを頼める人がいなかったら、どうなっていただろう?そう思うと気が重くなる。

でも、あえて今の気持ちを言葉にするならば、「運が良かった」としか言いようがない気がする。はっきり言って、たまたま僕らは運が良かったのだと。そして、同じ理由から、たまたま僕らは不運だったとしか言えない状況も十分にありえた。
ときどき不安になる。今回は、そして今の僕らの状況は、たまたま運が良かったと言える状況にいるだけなのではないかと。

僕も妻もよそからこの土地に移り住んできて、だからこの土地には地縁も血縁もない。お互いの両親は健在だが、「ちょっと子ども預かって」と頼みごとをするにはあまりにも遠いところに住んでいる。

今回のように、僕らの周り、厳密に言えば妻の人脈に、子どもが同じ保育園に通うお母さんが職場の同僚にいて、その人が力になってくれたり、あるいは、お風呂でよく一緒になるばあちゃんがいつもぼっちゃんにお菓子やジュースをくれたり、時には夕飯のおかずを持ってきてくれたり・・・自分では見ず知らずの土地で孤立無援だったはずが、気がつくといくつもドアが開いていることに気づく*2

一生懸命ルートを開拓しました!と自分達が胸を張っていえるかといえば「え、あ、いえ・・・・。」残念ながら、それほどの努力をしてきたとは思えない。すくなくとも、ぼくらが自力でドアを「こじ開けた」とは、とてもじゃないが言えない。
では、むこうから僕たちのためにドアを開いてくれたのだだろうか?それもすこし違う気がする*3

では、誰がドアを開いたのか?
よくわからない。誰でもあり、誰でもないのかもしれない。

だから、誰からも助けられず、誰からも相手にされないという状況にいるという想定も、それはそれでまったくおかしくないし否定できない。

でも、もしかしたら、こういうことをツラツラ書けるのも、たまたま今、ものごとがうまく運んでいる状況にいる*4だけだからかもしれない。

もちろん、すべても運で語ってしまうのはナンセンスだが、個人の努力や気合では開かないドアが実は数多く存在しているのではないだろうか。
だとしたら、そのドアが開くまで待つことしか、われわれには手段がないのだろうか。
きっとそうではないという気がする。でもその場合の

*1:実際、帰ってきたのは夜の7時半頃だった。

*2:とはいえ、ぜんぶ妻やぼっちゃんのルートだけど。

*3:この場合の「ドアを開く」はあくまで比喩であり、事実上の僕らへの好意や気遣いは、まちがいなく周りの人達から僕らへ向けられたものだ

*4:誤解を招きかねる表現だが、「子ども方面」というある特定の方面に関して事態の運行が上出来だという意味であって、全体としてみればうまくいってない部分があることは当然である。