モグラがメガネをはずす日

先日、いつものお風呂にいったときのこと、女湯でのことなので僕は実際には見ていないのだが、妻によるとその出来事の概略はこうだ。
その日のその時間にお風呂を訪れていたのは僕ら家族だけで、ほかにはだれもいなかった。もちろん風呂場にも。

でも、ぼっちゃんは誰もいない風呂場に向かって何か言っている。「おばちゃん・・・・○△▼ってわいや・・・ダメよ・・・」と誰かに何かを注意している。そのうち手に何かを持っている様子で(実際には何も持っていないのだが)妻の元に行き、とにかく受け取れと言う。妻も何が何だかよくわからないが、とりあえず「ああ・・・はい」と受け取るふりをすると、どうやら納得がいった様子。

こうして大人語りしてしまうとなんとも不思議な話のようではあるが、ぼっちゃんにとっては全くの日常、その日常の延長でしかないのだろう。ぼっちゃんに何かが何かとして、何かのように経験されたとしたら、それこそがぼっちゃんにとっての現実なのだ。でも、こうした意味では、大人の経験する現実だって、さほど変わりはないのだろう。

ぼっちゃんはゴードン*1やダック*2トミカで遊ぶとき、しきりに彼らに話しかけているような気がする。厳密には、状況を想像的にシュミレートしながら物語を作り出し、それが口からダダモレしているのかもしれないが、とにかく、ゴードンやダック、パーシーたちはぼっちゃんにとってトミカや「物(モノ)」以上の存在であるのは確かなようだ。

客観的な思考法からすれば単なるモノでしかない者たちが表情や性格を持ち、語りかけてくるような世界って、どんなものなんだろう。ある人たちはそれを「アニミズム」的世界観と呼ぶかもしれない。

でも、それって、むしろ子どもの頃の原始的な知覚経験あるいは世界経験、世界の成り立ちを大人が大人ぶって「アニミズム的」と呼んでいるだけだ。セザンヌやクレーらが言った様な、自分が物を描いている(見ている)というよりも、逆に、物に見られていおり、語りかけられているうな能動と受動の絡み合いの経験といっても、やはり同じことだ。僕の知覚はぼっちゃんの知覚と同じになることは無い。

でも、いつか、そんな世界が変質してしまうときが来るのだろう、と思ったことが最近ある。

妻と同じ職場の人の子(男の子。5歳)の発言を(妻経由で)聞いたときだ。(すこし不良ぶった感じで、すごい真理を語るかのごとく)彼曰く、








「ねえ、知っとる?モグラっち、ほんとうはメガネかけとらんとばい。」*3


きっと、ぼっちゃんの前でモグラがメガネをはずす時がくる。でも、ずっとずっと昔、彼らは僕らの前でも同じように、メガネをはずしたのだろう。そうやって、大人になっていく。(「つまらない大人」とは書かない。大人の中にもつまらない人と、そうでない人がいるから)でも、そのころの記憶があったらいいなぁ、なんて、ぼっちゃんの今を見ながら思う。

関係ないかもしれないけれど、村上春樹の『海辺のカフカ』という小説の中ですごく印象に残っているシーンで、登場人物の一人が、他の登場人物のことを同性愛者であることを知って、でも、「うちのじいさんは石や猫と話せたんだから、男と寝る男がいてもべつに不思議じゃないよな」(正確じゃないけど、だいたいこんな意味)と言うシーンがある。
「うちのじいさんは石や猫と話せたんだから」って、すごくいろんなことが風通し良くなる気がする。



ちなみに今日のタイトルの元ネタは、もうバレてるかもしれないけど教授の「ゴリラがバナナをくれる日」です。

(ラジオ音源なので映像は出ません)

*1:きかんしゃトーマス」に出てくる機関車の一人。ぼっちゃんのお気に入りに一台。大型の機関車で急行も引っ張るエリートだが、横柄でいばりんぼう。

*2:やはりぼっちゃんお気に入りの一台。陽気で真面目、優しくて朗らかだが、多少ワーカホリックなところがあって、怠け者の機関車たちには多少煙たがれている。

*3:訳:知ってる?モグラって本当はメガネかけてないんだよ