ミソだけど兄貴

ずいぶんお腹が目立ってきた妻の寝巻きのワンピースをめくってはその中に頭を突っ込み、「おっぱい、おっぱい」と連呼するぼっちゃんはすっかり赤ちゃんがえり。2人目、3人目は(一人目のときに一度伸びているので)大きくなるのが早いという話だが、確かに、一理ありそうな具合だ。
今日、保育園にぼっちゃんを迎えに行って、まさにさぁ今から車に向かおうかというとき、ほかの子が三輪車に乗っているのを見て自分も乗りたくなってしまったぼっちゃん。でも、実際のところ三輪車は「使用中」なのでぼっちゃんはのることができない。ぼっちゃん号泣。見かねた保母さんが三輪車に乗っている一人に「一回だけ貸してあげて」と声をかけてくれたおかげで、ぼっちゃんは一瞬だけのることができた。でも、乗ったら最後、返そうとしない。まぁ・・・ある程度は予想できた展開ではあるのだが、ここは一度乗ったらまたすぐ返すという約束。とにかく、泣きじゃくるぼっちゃんをテテット(ぼっちゃん語で「チョコレート」の意味)とか、ぶどうとか、いろんなもので気をひきつつ、なだめながら車に乗せる。
そして、帰りの車中でぼっちゃんが一言。

ぼ:「お母さん、もう赤ちゃん生まれたの?」

今日のあの泣き方はすこし尋常じゃなかった気がする。妻とも話したけれども、もうすぐ妹が生まれてくるということが、彼にとっても何かしら思うところがあるというのか、感じるところがあるのかもしれない。

ただ、ぼくも妻も、ぼっちゃんのこうした一連の赤ちゃんがえりに対しては、是非とも好意的に、肯定的に受け止めたいと思っている。まぁ、確かに、最近のぼっちゃんのお母さんに対する「おっぱい大好き攻撃」*1は、多少激しすぎるところもないではないが・・・でも、例えばここで「お兄ちゃんでしょ!」とか、そういうことは言いたくない。きっと事情はそんなに単純ではないはずだから。

そのようにお母さんベッタリかと思うと、「ちゃぷ(ぼっちゃん語でお風呂の意味)は、とっち(父の下の名前:トオル)と入る」と、最近やけに父とフレンドリー。
もしかしたら、今ぼっちゃんのなかではいろいろなものがせめぎあっているのではないだろうか。

子どもが成長するって、ある目的地に向けて階段をポンポンと躊躇無く駆け上っていくように、一つの方向へ向かって成長していくことではない気がする。上ったかと思うと、思い出したように2、3段下りて、そしてまたいきなり駆け上がっていったり・・・。大人だってそうだ。例えばホッチキスみたいにいつまでも同じところにウジウジとどまっている奴なんっていっぱいいる。
ホッチキスは放っておいてもいいとして、例えば時間の流れが均質ではなく濃淡があるように、そして、それぞれの濃淡に、優劣と言うよりは、それぞれの意味があるように、きっとこの時期もぼっちゃんにとっては大事な意味を持っているのだと思う。「一見、後退のように見えるけれど、さらに遠くまで飛んでいくために思いっきり大きくとった助走距離」なんて書くと、きれいにまとめすぎてあざといというか、書いていて恥ずかしくなった。書かなきゃよかった。

だから、今は、ぼっちゃんの赤ちゃんがえりに付き合ってみるのも悪くないかもな・・・なんて悠長なことを思ってみたりする。だって、考えてみれば、赤ちゃんがえりできるほどに、大きくなったということでもある(赤ちゃんは赤ちゃんだから赤ちゃんがえりはできない。)のだ。

とはいえ、自分より年下にはすっかり兄貴風吹かせているぼっちゃん。予行練習は十分。年長さん、年中組みさんたちからみればまだまだ「ミソ」で、まともに相手してもらえないけれども。


追記:

・・・・なんてことを書いて、さあ、寝ようというとき、妻が「そういえばパンツん(ぼくら夫婦間でのぼっちゃんの呼称)、『ぼくはおにいちゃんじゃないよ・・・まだあかちゃんだよ・・・』って言ってたよ」と話してくれた。
そうかあ、たぶん、保育園とかいろんなところで「もうすぐお兄ちゃんになるね」に類することをいろいろ言われてるんだろうな。もちろん、言っているほうには何も悪気はないのだけれど、何だかんだ言って、ぼっちゃんの歩んできた人生って、まだまだ約2年10ヶ月。おもわぬところでぼっちゃんにとってはプレシャーのようなものになっているのかもしれない。
家族(そんな概念はまだ持っていないかもしれないけど)が増えるとか、妹ができるとか、そういうことは彼にとって大人が考えている以上に、ものすごい未知の領域なんだと思う。

上で書いたとおり、保育園ではまだミソだけど、じきに「兄」という役割を担うことになる。それは、あえてものすごくネガティヴに言うと、自分がこれから常に「誰々の兄」という新たな文脈を背負い、そこに縛られるということでもある。

ぼっちゃんのなかにどんな混乱があるのか(そもそも、そんな混乱なんてものがあるのかどうかということ自体もふくめて)、それは僕にもわからない。しかし、そこに何か乗り越えなければならないものがあるとしたら、やはりそれは彼自身が乗り越えなければならないのだろう。だとしたら、今僕にできること(それすらはっきりと「これだ」と自信を持っていえるほどわかってはいないのだけれど)は、とても限られているように思える*2。このあたりが父の無力さなのかもしれない。

*1:しかも、このときのおっぱいのいじり方が微妙にオッサンくさい

*2:「暖かく見守る」という言い方はあまりに陳腐だけど。