ハンモックぷかぷか

supply72008-08-01

 今年の3月の末に、まだ片目しか開いてない猫を拾いました。ヒコを保育園に送っている途中、車道に黒くて小さい物体が転がっていて、そこはあまりにも車道だったので、てっきり死体だと思い、ヒコにも「小さい猫が死んでたよ。悲しいね…」なんて言ってたのですが、帰りに見たら、なんかさっきとは違う体勢だったし、そういえば、本当に車にひかれたのなら、あの大きさの生き物は煎餅になっているはず。ということで、引き返してみたら、どうやら生きておりました。
 それから丸四ヶ月が過ぎ、春に拾ったから「はる」といういい加減な名前を付けられた子猫は、5年前に茂木で拾ったから「もぎ」と名付けられた巨大おっさん猫を押しのけてエサを食べる、立派なコギャルに成長しました。トイレのしつけにまったく苦労しなかったもぎくんに比べ、はるちゃんは好き放題。猫用トイレがお気に召さないらしく、当初はどこへでもまき散らしておりましたが、現在はようやく、ウンコは玄関、おしっこは7割が洗面所に敷いたペットシーツ、というところまで落ち着きました。(写真は、ビリビリに破られたふすまと散らばるおもちゃをバックに、かなり無理のある体勢で、生まれ故郷の特産である茂木ビワの箱に収まるもぎくんと、次の瞬間、もぎくんにケンカを仕掛けたはるちゃんです。)
 そんなこんなで、はるちゃんが来て、がぜん、私が「誰かの世話」をしている時間が増えました。ひとり増えると、異様に増えた気になるのは、赤ん坊の洗濯物と似ています。帰ってドアを開けてすぐに転がっているはるちゃんのウンコ掃除を皮切りに、洗面所のペットシーツ、もぎくんのトイレ、そのうちヒコが「しっこでる」、トイレまわりが終わったと思ったら、2匹から激しいエサの要求、ヒコからは「ちーち(牛乳)のむ〜」、風呂を入れつつごはんの用意をして、いやがるヒコをなだめすかして風呂に入り、そのお湯で洗濯しながらごはんを食べていたらヒコが「うんこでる〜」。帰ってきてみたら、もぎくんもトイレできばっている気配、はるちゃんは部屋を暴走した後、本日2回目のうんこ、ヒコもミニカーの箱をぶちまけ、そのうち洗濯機からピーピーと「終わりましたよ〜」の音がして…とまぁ、風呂や洗濯物も入れたら、だいたいが「汚れものの処理」で夜は更けるのですが、変な話、自分自身の、なんというか、命の根っこ、みたいな部分は、とても楽なのです。身体は、息つく間もないほどめまぐるしく動かさざるをえないけれど、特にはるちゃんが来てから、息をすることが楽になった気がします。そう気付いてからは、ほんと、身体は大変なのだけど、家の中に5人(?)が揃っている時の方が「生きやすい」という気が、どんどんしています。
 これって、どうしてなんだろう、って考えたのですが、人間でも猫でも、存在同士が近くにいると、ビーッと見えない線みたいなのが引っ張られて、それぞれは、その線に支えられているのかもしれないな、と思いつきました。ひとりの時はひとつの点だから、気楽だけど、ひとつきりで浮いてなくちゃならないから、それなりにパワーもいる。ふたりの時は、1本の糸にお互いが全体重をかけている状態。男女でも親子でも、それが素晴らしい喜びの時もあるけど(熱烈恋愛中、とか。)、本当はすごく不安定。これが3つの点になると、ひとつ、三角の網目が誕生するので、身を預けることができる。それがさらに4つ、5つ、と点が増えるにつれて、(あやしく言えば)生命エネルギーとか、気のようなものでできた糸による「存在作用ハンモック」の密度は高くなって、生き物としては、気軽に生きられるようになるのではないか…。初々さんが、オット初々さんのご実家で感じた心地よさは、そんな「細かい編み目のハンモック」の安心感だったのではないでしょうか。
 もちろん、そこにいる「点」同士の性格とか、社会的地位とか趣味趣向とか、そういう難しい問題は、特に人間同士、家族の間にもあるだろうけど、本来の生命体としては「たくさんの中のひとつ」の方が楽ちんなように設定されてる気が、(元々ひとりが大好きな自分だからこそ)、するんです。ちょっと話は違うけど、あいもかわらず「オンリーワン」が叫ばれてますが、それって、むしろ生きにくくなる道じゃないだろうか。世界にひとつだけの花って、大変そう。そして、どうしても現代の生活で取られがちな「子どもと2人きり」状態というのは、少なくとも、それを経験したことない人が思っているよりはるかに、生命のあり方として「危険」な状態では? というのが、ウンコクサイ派としての見解です。