記憶がないですね

カテゴリー名、とりあえず「土曜ホッチキス劇場」にしてみました。最初は「カンガルー通信」というさわやかな名前を考えていたのですが、よく考えると村上春樹の著作にそのまんま『カンガルー通信』という本があって、やっぱりそれはなぁ・・・と思っていると、土曜・・・土曜と言えば、「土曜ゴールデン劇場」!?というわけで、この名前に落ち着きました。でも、もしかしたら変わるかもしれません。でも劇場というよりは楽屋裏という感じですね。

僕は生物学上、妊娠という経験はしたこともないし、これからもおそらくは不可能だと思います。だから、お腹の中にもうひとり人間がいる時間って、いったいどんな時間なのかという問いは、僕にとっては永遠に解けない問いの一つでもあるわけです。でもそれは「わかんないから、いいや」とか、「否!同じ人間だからきっといつかわかるはずだ!」とか極端に振り切れることでは解決されることではなくて、この「わからなさ」は「わからなさ」として保留しつづけるというか・・・あ、すみません、なんだか硬い話になってしまいましたね。ご挨拶が遅れましたが、こんばんは。夜霧のホッチキスカンガルーです。

でも、今日読んでいた本の中に「時間性は主観性として了解されなけらばならず、主観性は時間性として了解されなけらばならない」なんてことが書いてありました。意味はよくはわからないんですけど。でも、僕が僕自身について「変わったなぁ」と思うのは、自分にとっての時間のありかたが変わったことじゃないかなぁ、と思うときがあります。でも、ここでいう時間っていうのは円盤上に12等分されたものとしての、クリアに数量化された時間じゃなくて、過去の記憶の濃淡とか、時間の流れ方とか、もっと漠然としたものです。

自分ひとりでその日のスケジュールを決め、自分のペースで本を読んだり出掛けたりするときの時間と、妻が産休を終えて昼間は2人きりになったあの夏、ひたすら眠り続けるぼっちゃんを抱っこしたまま部屋の中に立っていた時間(布団に寝せると起きて泣くので、とにかく立ったまま抱っこしていた。間をとって椅子に座っても苦情を言われた)は、同じ時間という名で呼ぶにはあまりにも違いすぎるものでした。僕にできるのは、とにかく抱っこし続けることと、妻の帰りを待つことだけ。家の近くを流れる川の音を聞きながら、とにかく時間が経つことを願っていたような気がします。あの頃の記憶は(幸か不幸か)あまりありません。

「ただ時間が流れるのを待つ」って、言葉にすると単純だけど、実は恐ろしいことだと思います。日常では、常に時間は「スケジュール」と名前を変えて目的や用途と関係しているけど、そういう目的や用途がひとます無効化されてしまう感じでしょうか?(厳密には、子守とか、昼寝させるいった目的があるといえばあるのですが)とにかく、すごい時間体験だったですね。でもこう思うのは、僕の個人的な性格によるところが大きいのでしょうが、僕が男だからかもしれないな、と思うフシもあります。かといって「男というものは・・・」と一般化してもあまり意味は無い気がしますが。

今回はぜんぜんまとまらないまま、第2回目にして大座礁な感じですが、みなさま、どうぞ良い週末を。