一日は遅い。一週間は早い。

なんとまぁ、金曜日である。ひとまわり目、というのもあって、ほかの人が書き込むのは今か今かと待ち遠しかったが、自分が巡ってくるのは、あっという間である。
…というような、時間の流れ方の「不均衡感」って、子どもにまつわってくると、さらに強くなる。こっちはむしろ逆のパターンだけど、同じ歳の子についてでさえ、「人の子って、育つの早いよねー」と思ってしまうあの感じは、なんだろうか。人の子は、ほんとに早い。カナさんちのニーニャちゃんだって、こないだ生まれたと思ったのに、もう「アグア」かい!
子どもと過ごすときの(特に「雨の日、二人きり」なんて…)、あの「時間の過ぎなさ」は、カップラーメンを待つ時以上の「過ぎなさ」があるなんて、まったく信じられなかった。でも、そうやって過ごした一日の終わりには、「私の今日はどこへ行ったのでしょうか?」という、落とし物をしたような「あっという間感」もまた、待っていて、これはいまだに慣れない。たぶん「私の今日」なんていう、まるで時間をコントロールできるかのような錯覚が、大きな間違いなのだろうけど。30何年生きた人間と、たった数ヶ月、数年のそれと、時間の感覚が揃うわけがないよなぁ。あっちとこっちとじゃ、一分一秒の重要性が、明らかに違うんだもの。「一期一会」なんて、それをつい忘れちゃうから、ご大層に言い立てるのであって、子どもの一瞬は、そんなことわざわざ言わなくても、常に真剣勝負を仕掛けてくる。(こっちが付き合いきれないだけで。)
そういう意味では、妊婦時代の時間の過ぎなさを、しみじみと思い出す。それこそ「魚類から人類への進化の過程」を、猛スピードでふまえながら人間になっているものと、体ごと付き合っていたのだから、そりゃー時間の感覚も狂うはずだ。ほんと、あの頃は一生妊婦のままかと思っていた。もちろん今では、ものすごく昔のことに思えるけれど。