いつから、何によって?

 3ヶ月も間が空いて、もう誰も…書き手たちさえも読まないかもしれませんが、久しぶりにポツリと登場してみます。

 ポン女史…最近ではミサキングさんと呼んでますが、5ヶ月になりました。ヒコも5歳になりました。
 ミサキングさんが異様にかわいく思えるのは変わらず。そしてどれだけでもじーっと見ていられます。5ヶ月。まだ「その時」は来ていないように感じられます。

 「その時」。
 ミサキングさんが、というよりも、赤ん坊というものが、いつから赤ん坊じゃなくなるんだろう、と思うことしきりなのです。ヒコの時は何もかもが初めてで余裕もなかったけど、今回は、赤ん坊があまりにもすごい存在だということがひしひしと感じられて、でも、人はいつからか赤ん坊じゃなくなってしまう。
 赤ん坊のすごさ…私が感じたことなのですが、その恐ろしいほどのデジタルさ、クールさ…なんというか、あいまいなところが1ミリもない。逡巡、憶測、下心、妄想…一切無し。この文章のような「…」とか「なんというか」とか、なんてことがこれっぽっちもなくて、猛烈に精緻で繊細な入力と出力で構成されています。きっと。赤ん坊に関して言えば、日々の育児生活で「もう!どうしてこうなの!」って気をもんでみても、100%こちらの読み取り能力不足。赤ん坊にはひとかけらの非もありません。「生命」というものが、まるごとそのまま、出し惜しみなく、過不足なく、奇跡的に存在しているのが赤ん坊なのだとしか思えないのです。すばらしいです。横に寝転んで、彼女になったつもりで、彼女がするままに声を出したりキョロキョロしたり、手足を動かしてみると、その愉快さに驚きます。いや、手足の動きは到底真似できません。それは武術的にはとてもうらやましい闊達さでもあるらしいですが、赤ん坊の動きの「解像度」が100としたら、普通の大人なんて、13くらいなんじゃないでしょうか。甲野先生でも75くらいかもしれない。

 でも、人はいつからか赤ん坊じゃなくなってしまう。それは、どうしてなんだろう?何によって、哀しき人間であることを獲得してしまうのだろう?ミサキングさんの横でゴロゴロしながら考えるのですが、いまのところそれは、どうも「言葉」しかないような気がしています。あたりまえ?世間的には常識?でも、そうだとしても、実際に生身の赤ん坊を目の前にすると、その柔らかな手ざわりからは想像もつかない「デジタル&クール」におののき、同時に、それを失わせる「なにか」のことについて思わずにはいられませんでした。言葉という、どうにも哀しくて、「そのもの」っぽい顔するのに、しょっちゅう「そのもの」を取り逃がして、でも使うのはやめられなくて、たまらない魅力もある、という、こりゃまるで人間そのものじゃないか…という、やっかいなものを使うようになってしまうと、赤ん坊ではいられなくなるんだ、デジタルからアナログへ移行してしまうんだ、と。

 いま5ヶ月。この「デジタル&クール」な存在をまだ見ていたいのですが、そのうち「マンマ…」とか言い出すんだろうなぁ。


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 ということを書いておいて、こんな話をするのもなんですが、赤ん坊がまるで語っているかのように「ううう〜あ〜〜ゆよ〜ん」と「話し」続ける時があります。それって、本当は「語っているかのように」じゃなくて、語ってるのかも、と思います。生まれる前の、どこか遠いところの様子や、はたまた地球上の諸問題に関する解決策など、彼らの言葉で教えてくれているんじゃないかと思えてなりません。この「語り」を録音しておけば、500年後くらいには翻訳されて、じつはとんでもないことを教えてくれていたことが解明されるのでは?ということを、わりと本気で思っています。「一度語ったことは、本人の頭からは消えていくのかも…」なんて。