わからないから、わからないけど、一である。

数日前にカナさんのツイッターにあった、幼児教育のお誘い文句に、けっこう長いこと衝撃を受けっぱなしでした。

「入園後のつまづきを事前に解消するなら、いまが最後のチャンス!」
「問題が起こってからでは、手遅れ!」


なんか、いろんな意味でへこみます。
でも、へこむのも悔しいので、久々に読みはまっている本から迎撃してみます。

小林「私はこの頃、仕事をしていて、これはどうなるかな、やっているうちにとんでもない失敗をするかもしれないなと、いつでも思うのですが、岡さんはどうですか。」
岡「ええ。どうなるか全くわからない。」
小林「わからんでしょうな。わかれば書きませんね。」
岡「そうでなければ、読む人は企(たくら)みに踊らされているような気がするでしょう。」
小林「方向だけは決まりますが、やれるかどうかはわかりませんね。」
岡「きっと本当のやり方はそうなると思います。」
小林「未来はわからないと思いますね。」

人間の建設 (新潮文庫)

人間の建設 (新潮文庫)

「わかれば書きませんね。」は「わかれば生きませんね。」に代えてもいいのではないだろうか。

この本、薄いんだけど、も〜、濃いです。「有り体にいえば雑談である。」っていう謳い文句どおり、いろんな分野の話があっちこっち出てきて、しかし、このお二人ですから、凡人にはわからないことだってたくさんあるんですが、なんかいちいちおもしろいです。最初のページからいきなり

小林「今日は大文字の山焼きがある日だそうですね。ここの家からも見えると言っていました。」
岡「私はああいう人為的なものには、あまり興味がありません。小林さん、山はやっぱり焼かないほうがいいですよ。」
小林「ごもっともです。」

いいなぁー。雑談。山はやっぱり焼かないほうがいいですよ、って。

そして、数学者として「一」を語る岡さんの言葉に、こんなものが。

自然数の一を知るのは大体生後十八ヶ月と言ってよいと思います。それまで無意味に笑っていたのが、それを境にしてにこにこ笑うようになる。つまり肉体の振動ではなくなるのですね。そういう時期がある。そこで一という数学的な観念と思われているものを体得する。生後十八ヶ月前後に全身的な運動をいろいろとやりまして、一時は一つのことしかやらんという規則を厳重に守る。その時期に一というのがわかると見ています。

という文の〆は、しかし…

一という意味は所詮わからないのですが。


でもまたそのあとで、

数学は一というものを取り扱いません。しかし数学者が数学をやっているときに、そのころできた一というものを生理的に使っているんじゃあるまいかと想像します。…
そのときの一というものの内容は、生後十八ヶ月の体得が占めているのじゃないか。一がよくわかるようにするには、だから全身運動ということをはぶけないと思います。…

私がいま立ち上がりますね。そうすると全身四百幾らの筋肉がとっさに統一的に働くのです。そういうのが一というものです。


なんかだんだん、野口晴哉さんの本を読んでるのか、甲野先生の講座に出てるのか、よくわかんない気持ちにもなったりする読書タイム。

そんでもって、またまたですが、「一」を、おなじ音を持つ「人」に入れ替えても、グッと来ます。「数学」んとこは「医学」とか「教育」か?

ポンコちゃんの「一の体得」を見られたらいいなぁ。