顔が近すぎます。

写真を整理していると、「これはオレが撮ったやつじゃないだろ」というような写真に出会うときがある。

テレビの画面を撮るというのが斬新すぎる。しかも朝青龍か?これ?相撲よく知らないんだけど。

大人にはそもそもこんな構図は「見えない」。子どもだから見える「構図」がある。


今の職場は町の情報センター的な役割も果たしていて、そこで働いているとさまざまな情報に触れることになる。新しい手作りパン屋の情報、幻の秘湯の情報・・・そして、表にはでてこないが、この小さい町ならではの「政治」の話等々・・・。

その情報の中にはハローワークを経由した就職情報も含まれている。求人情報をファイルした冊子も置いてあって、自由に見ることができる。実は僕も仕事を探している時期、ここに通ってそのファイルとにらめっこしていた。(そのときは、近い将来、まさにここで働くことになるとは思っていなかったのだが。)

特にこの小さい町では、「仕事が無い」という現実は過酷なまでに切実だ。その切実さは、求人票ファイルを見に来る人の様子や、交わす会話からも伝わってくる。

その問題が、その人にとって切実であるとき、それぞれの人が抱えるそれぞれの問題がどのようなものであれ、それらのあいだに優劣をつけることは無意味だろう。ポスドクや小鳥屋にそれぞれ切実な悩みがあるように、職探しには職探しの、子育てには子育ての切実な悩みや問題がある。それぞれの切実な悩みという「モナド」には「窓がない」*1ので、往々にして、他の悩みのモナドの切実さが見えない。しかし、ときに、自分の切実な悩みが、他の無数の切実さの中の、一つの切実さにすぎなかったのではないかと思うときがある。

繰り返すが、無数の切実さがあり、それらのあいだに優劣をつけることは、すくなくとも僕には出来ない。誰かできるひとがいるのだろうか?もしできる人を知っている人がいたら教えてほしい。

無数の切実さが、無数の組み合わせの可能性のうえで、お互いがいったいどういう切実さなのかもしらずに、世界に満ちているのだろうか。

これを書いているいま、遊びに来てくれたトンビ一家とビールを飲んでいる。

たぶんすこし酔っ払っている。

全裸になっていいですか?

*1:ライプニッツを参照のこと