がばちょさん、おめでとうございます!

がばちょさん、ご出産おめでとうございます!そしておつかれさまでした。小さな新しい仲間を迎え入れることができて、とても心強く、そして嬉しく思っています。これから始まる赤ちゃんとの暮らしが楽しみですね。どうぞ今は無理されず、お産のお疲れを癒してください。私自身のお産を振り返ってみると、産後はずいぶん体がしんどかった・・・ベリーダンスやヨガで鍛えておられたがばちょさん、もしかしたらひ弱な私と違って「全然元気!」かもしれませんが、私が産後に言ってもらえて励まされた言葉をお伝えしておこうと思います。「赤ちゃんのお世話は誰にでもできるけど、自分のからだのことは自分にしか出来ないから・・・しっかり休んでね。」またがばちょさんの元気なお便り、楽しみにしています。

ところで今日の更新はどうしようかと迷ったのですが・・・ひとまず書いておいたものを通常通りアップしておこうと思います。もしがばちょさん(や、トンビさん)が「続報」をお伝えしたいようでしたら、どうぞ私の記事は気になさらずにそのまま月曜日にアップして下さいませ。・・・と書くと「続報を待っていますよ〜」というプレッシャーにならないかしらと気になりつつ・・・とにかく曜日の枠を気にしないでくださいね、ということをお伝えしたく思っております。

以下、記事になります。「かわいい、の背景に弱さを見る」

ずいぶん、大きくなったものだなぁ・・・
時折まだ生まれて間もない赤ちゃんを見かけると、嬉々として小走りするこ初々さんを振り返って感心してしまいます。自分で寝返りさえうてなかったヒトが、今はもう走っている。いやぁ私よくここまで育てたなぁ、頑張ったなぁ、うん、自分でねぎらおう・・・と言いたいところですがそういう話ではなく、今回は「いやぁこのヒトは、私のケアする力をようここまで引っ張り出してき続けたものだよ」という話。

赤ちゃんのお世話、幼いこどもとの暮らしは、そりゃもう「たいへんだ!たいへんだ!」と騒ぎたくなるようなこともいっぱいあります。トンビさんが以前おっしゃっておられたように、「吹き飛ばないし、あっという間でもない」というのは実感としてしみじみ思う・・・時にはこづきたくなるくらい憎たらしい時もあり、一日中何となくしっくりいかなかったりなんかすると、その寝顔を見てさえ「やっと寝てくれた・・・」と思うのが精一杯だったり。もっともっと赤ちゃんだった頃は寝不足で頭が朦朧とし、体力の限界を超えてなお、おっぱいを含ませなければならないこともしばしば。それでもここまで放り投げず、我が子とともに歩み、手を差し伸べ続けられたのは、やっぱり目の前のこどもが「かわいい」からにほかならない、と思うのです。

この「かわいい」というものの正体は一体何なのでしょうか?おそらく心理学的に解明されている部分も多々あるのでしょうが(ビジュアル的なかわいらしさを構成する要素が何であるのか、など。それらに関しては後日オットから語ってもらいましょう)、私はひとつの仮説として「ヒトは、誰かをかわいいと思うとき、その背景に弱さを見る」のではないかと思うのです。かわいい、の背景には、弱さがある。その弱さに対して、ヒトは手を差し伸べずにはいられないのではないかと・・・

そう考えると赤ちゃんは弱さの塊です。とにかく、何一つ自分では出来ません。放っておいたら、そのまま死んでしまうくらいの弱さです。もしかしたらその「弱さ」は、赤ちゃんに与えられた、たった一つの生き延びる方策かもしれません。どこかの誰かに、存在をまるごとお世話してもらうため、ヒトとして不完全な形で、つまり弱さを抱え込んだままで、この世に生を受けるようになっているとも考えられます。

そんな「赤ちゃん戦略」にのせられて!?、時には「いやだ、疲れた」と思いながらも、これまで子どもとともに暮らしてこられました。そしてそれは、看護や介護といった場面にもそのまま当てはまるような気がしています。しかし「こどもをかわいいと思う」ことには何の批判もないでしょうが、「患者(あるいは被介護者。主に年配の人たち)をかわいいと思う」ことに対しては何かと問題があるようです。自分よりも経験豊富で、人生の先輩に対して「かわいい」とは何事か、馬鹿にしておる。患者を、看護(介護)側にとって都合のよい、「かわいい」枠におさめようとするな。・・・等、色々な声が聞こえてきそう。かの上野千鶴子さんもおっしゃっていますね。「かわいくなくても介護される権利がある」と。それは確かにその通りです。かわいくなくても介護される権利がありますし、介護する側には介護する「義務」はあります。でも、介護する側から「義務」以上のもの・・・積極的な関心、「してあげたい」という気持ち・・・を引き出すのは、「かわいさ」であるように思うのです。

ですから、私はこれらの批判をまっとうに受け入れるつもりは全然ありません。そのような批判があることは結構。「かわいい、なんて言われたくない」と思っているような人に対して、あからさまに「かわいい」と言うつもりはありませんし、「かわいいと思って対応している」様子を見せることもないでしょう。ですが、私が誰かをケアしようと思うとき、私は「その誰かをかわいいと思う」ことを必要としているという事実、それを否定はしません。もっと言ってしまえば、「かわいい、と思うそのヒトの背景に、弱さを見る。その弱さが、私の関心を高め、自然と手を差し伸べたいという気持ちにつながっている。」という構造が私自身の中にあることを、私は認めてやりたいのです。

もちろん、私も生身の人間ですから、出会う全てのヒトを「かわいい」と思えることはないでしょう。でもそれでもいい、と思うのです。いやむしろ、そうでなければ問題かもしれません。何しろ「かわいい」というのは、「これこれこういうものだ」と説明できるものではなく、関わるヒトが100人いたら100通りの「かわいさ」なるものが存在するものだから。私にとってかわいくないヒトでも、一緒に働く同僚にとってかわいければそれでいい。上野さんにしたって「かわいくなくても介護される権利がある」という発言の中に、「まぁそんな強がり言って」と、かわいさ(の背景にある弱さ)をキャッチできるヒトがいてくれればそれでいいわけです。当然出来る限り多くのヒトにかわいいと思ってもらえる方が手厚いケアを受けられるのでしょうが、「そういうふうには生きてこなかった」のだから仕方がない。それよりもその方が大事にされてこられたことが他にあるのでしょうから。

そのような意味において、「かわいい」ということ、つまり「その背景に弱さが見える」というのは、ヒトの関心を高め、ヒトとヒトとのつながりを強める装置であるとも言えます。ヒトは一人では生きていけませんから、そのような装置がどうしても必要なのでしょう。赤ちゃんが弱いまんま、弱さの塊で生まれてくること、そのことが「つながって生きること」の大切さを教えてくれているような気がしてなりません。

「弱さ」についてもっと考えたい方はこちら、「弱さのちから ホスピタブルな光景」(鷲田清一 講談社)をお勧めします。