一歳半をあなどるな(オット初々)

一歳半の子どもだけど「えー、こんなことも分かってるの!」ということが日常生活の中でたくさんある。こういう事ってものの本には書いてないので、実際に経験してみて初めて知って驚くのだ。

たとえば、先日あったこんなこと。普段妻の前では、あからさまにおらなをすることを控えているのだけれど、その時はこ初々さんと二人だけだったので「まぁ一歳半の子どもには分かるめぇ」とプーと排気。すると、ひとりで遊んでいたこ初々さんがサッとこちらを振り返り、ニヤッと笑って私を指さしながら「あー、プー」と言うではないか。自分のおならを指摘された私は「あはは」と大笑い。こ初々さんも一緒に大笑い。
いやはや驚いた。まさか一歳半の子どもに自分のおならを指摘されるとは。さらにそれを共通のネタとして笑いあえるとは。完全に一歳半を見くびっていた。

でも考えた。こ初々さん、“他人のおならは可笑しいものである”ということが分かっているのか? どこまで分かっているのだ、と。でもでも、いや待てよ、その前に、おならはなぜ可笑しいのだ???? 考えてみるとよく分からない・・・・・。おならは「うんちと同じ匂いを他人に嗅がせて不愉快な思いをさせてしまう」という失敗(ウンチがなぜ嫌悪されるか、という件はまた別の問題)。その手の失敗は本来は非難されるべきものなのだけれど、その失敗が非難されるか、気がつかないふりをされるか、「妻の前でおならをしてはいけません」とお尻をつねられるか、笑って許されるかは関係によるわけだ。こ初々さんがこの関係を理解した上で許して笑ってくれた、とはちょっと考えにくい。じゃぁ、以前親がそうしたように自分もしてみたという、単なる延滞模倣なのか? あるいは、おならプーは人間にとって何かしら根源的なおかしみを引き起こす音なのか?

いやいや、問題はそこじゃない。一方がおならを聞いて笑い、他方がおならを聞かれて笑われたと感じ、それを契機にして双方がまた笑う。ここが重要なのだ。これで十分コミュニケーションが成り立っているではないか。「他人のおならが何故可笑しいか」が理解されていることではなく、「他人のおならは笑うべきものだ」という文化コードが共有されやり取りされていることが重要なのだ。おならが可笑しいこと(の意味)を理解している必要はないし、そもそも私も「なぜおならが可笑しいか」はよくわからないし、きっとだれも分かっていないのだろう。重要なのは、そういう文化で規定されるコードをやり取りできるってこと。これが、ヒトの社会化というものなのだろう。だいたい、われわれの日常会話だって、意味のやり取りなんてほとんどしてなくて、コードを共有していることの確認しかやってない。でさらに、コードの共有が確認できると、私たちは嬉しくなるようにできているらしい。

ちょっと話がそれるけど、一緒に歌をうたうというのは最も高度な文化コードの確認方法だと思う。歌詞、リズム、メロディーこれらすべてが意味レスな文化コードなわけで、みんなで一緒に歌がうたえるってことは「私たちはみな一つの文化コードを共有しています」ってことの確認と表明なわけ。歌詞、リズム、メロディーのどれ一つ欠けて一緒に歌はうたえない。だから為政者は一緒にうたいたがるし、どんな宗教もうたわない宗教はない(お経も唄のひとつ)。ライブで盛り上がるのも、オリンピックや高校野球やら甲子園で歌をうたいたいのはみんなでコードを確認したいからだ。なぜ、その都度コードの確認をし続けなければらないか。それは、文化コードは常に変化するし、できるだけ多くの他者とコードを共有している方が生存確率が上がるからだ。グローバルスタンダードという経済コードに後から参加した国々の作られた貧しさを見よ! もちろん、通貨もコード。文化コードの共有と確認は人の根源的な喜びを引き起こすのだ。

いや、だから何が言いたかったんだっけ。そうそう、一歳半とおならコードの共有ができることの驚きと喜びと、いつか一緒に歌がうたえたら楽しいだろうなぁ、ということ。